Title: Ukigumo
Author: Hayashi, Fumiko
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Title: Ukigumo
Author: Fumiko Hayashi
Rokko shuppansha Tokyo 1951 Source copy consulted: Georgetown University, call number: PL 829 .A8U6 Prepared for the University of Virginia Library Electronic Text Center.

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Title: Library of Congress Subject Headings
1951 Japanese fiction prose feminine LCSH 11/2002
corrector Sachiko Iwabuchi
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理性が萬物の根據でありそして萬物が
理性であるならば
若し理性を棄て理性を憎むことが不幸
の最大なものであるならば‥‥。
――シエストフ――裝幀 岡 鹿之助




浮雲

 なるべく、夜更けに着く汽車を選びたいと、三日間の收容所を出ると、わざと、敦賀の町で、一日ぶらぶらしてゐた。六十人餘りの女達とは收容所で別れて、税關の倉庫に近い、荒物屋兼お休み處といつた、家をみつけて、そこで獨りになつて、ゆき子は、久しぶりに故國の疊に寢轉ぶことが出來た。

 宿の人々は親切で、風呂をわかしてくれた。少人數で、風呂の水を替へる事もしないとみえて、濁つた湯だつたが、長い船旅を續けて來たゆき子には、人肌の浸みた、白濁した湯かげんも、氣持ちがよく、風呂のなかの、薄暗い煤けた窓にあたる、しやぶしやぶした みぞれまじりの雨も、ゆき子の孤獨な心のなかに、無量な氣持ちを誘つた。風も吹いた。汚れた硝子窓を開けて、鉛色の雨空を見上げてゐると、久しぶりに見る、故國の貧しい空なのだと、ゆき子は呼吸を殺して、その、窓の景色にみとれてゐる。小判型の風呂のふちに兩手をかけると、左の腕に、みゝずのやうに盛りあがつた、かなり大きい刀傷が、ゆき子をぞつとさせる。そのくせ、その刀傷に湯をかけながら、ゆき子はなつかしい思ひ出の數々を瞑想して、今日からは、どうにもならない、息のつまるやうな生活が續くのだと、觀念しないではなかつた。退屈だつた。潮時を外づした後は、退屈なものなのだと、ゆき子は汚れた手拭ひで、ゆつくり躯を洗つた。煤けた狹い風呂場のなかで、躯を洗つてゐる事が、嘘のやうな氣がした。肌を刺す、冷い風が、窓から吹きつけて來る。長い間、かうした冷い風の觸感を知らなかつただけに、ゆき子は、季節の飛沫を感じた。湯から上つて部屋へ戻ると、赤茶けた疊に、寢床が敷いてあり、粗末な箱火鉢には炎をたてゝ、火が熾つてゐた。火鉢のそばには、盆が出てゐて、小さい丼いつぱいにらつきようが盛つてある。ぐらぐらと煮えこぼれてゐるニュームの やかんを取つて、茶を淹れる。ゆき子はらつきようを一つ頬張つた。障子の外の廊下を、二三人の女の聲で、どやどやと隣りの部屋へ這入つて行く氣配がした。ゆき子はきゝ耳をたてた。襖一重へだてた部屋では、一緒の船だつた、藝者の幾人かの聲がしてゐる。

「でも、歸りさへすればいゝンだわ。日本へ着いた以上は、こつちの躯よ、ねえ‥‥」

「本當に寒くて心細いわ。‥‥あたい、冬のもの、何も持つてやしないもンね。これから、まづ身支度が大變だよ」

 口ほどにもなく、案外陽氣なところがあつて、何がをかしいのか、くすくす笑つてばかりゐる。

 ゆき子は所在なく寢床へ横になつて、暫く呆んやりしてゐたが、氣が滅入つて、くさくさして仕方がなかつた。それに、何時までたつても、隣室の騒々しさはやまなかつた。べとついた古い敷布に、ほてつた躯を投げ出してゐるのは、氣持ちのいゝことであつたが、これからまた、長い汽車旅につくといふことは、心細くもあつた。肉親の顔を見るのも、いまではさして魅力のある事ではなくなつてゐる。ゆき子は、このまゝまつすぐ東京へ出て、富岡を尋ねてみようかとも思つた。富岡は運よく五月に海防を發つてゐた。先へ歸つて、すべての支度をして、待つてゐると約束はしてゐたのだが、日本へ着いてみて、現實の、この寒い風にあたつてみると、それも浦島太郎と乙姫の約束事のやうなもので、二人が行き合つてみなければ、はつきりと、確かめられるわけのものでもない。船が着くなり、富岡のところへ電報も打つた。三日間を引揚げの寮に過して、調べが濟むと、同時に、船の者達は、それぞれの故郷へ發つて行くのだ。三日の間に、富岡からは返電は來なかつた。これが逆であつてみても、同じやうな事になつてゐるのかもしれないと、ゆき子は何となく、あきらめてきてもゐた。ひとねいりしたが、まだ時間はあまりたつてゐない。障子が昏くなり、部屋のなかに、燈火がついてゐる。隣りでは、食事をしてゐる樣子だつた。ゆき子も腹が空いてゐた。枕許のリュックを引き寄せて、船で配給された辨當を出した。茶色の小さい箱のなかに、四本入りのキャラメルの煙草や、ちり紙、乾パン、粉末スープ、豚と馬鈴薯の罐詰なぞが、きちんとはいつてゐる。その中からチョコレートを出して、ゆき子は、腹這つたまゝ齧じつた。少しも甘美くはなかつた。

 ――ドウソン灣の紅黄ろい海の色が、なつかしく瞼に浮ぶ。ドウソンの岬の、白い燈臺や、ホンドウ島のこんもりした緑も、生涯見る事はないだらうと、ゆき子は、船から燒きつくやうに、この景色に眼をとめてはゐたが、そんな、異郷の景色もすつかり色あせてきて、思ひ出すのも億くうであつた。隣室の女達は、夜汽車で發つのか、食事が終ると、宿のおかみさんに、勘定を拂つてゐる樣子だつた。ゆき子は騒がしい隣室の樣子を聞きながら、粉末スープを湯呑みにあけて、煮えた湯をそゝいで飮んだ。殘りのらつきようも食べた。軈て女達は、お世話さまになりましたと、口々に云ひながら、おかみさんの後から廊下を賑やかに通つて行つた。女の聲を聞いてゐると、ゆき子は、あの女達も、それぞれの故郷へ戻つてゆくのだらうと、誘はれる氣がした。ゆき子が、船で聞いたところによると、藝者達は、プノンペンの料理屋で働いてゐたのださうで、二年の年期で來てゐた。藝者とは云つても、軍で呼びよせた慰安婦である。――海防の収容所に集つた女達には、看護婦や、タイピストや、事務員のやうな女もゐたが、おほかたは慰安婦の群であつた。こんなにも、澤山日本の女が來てゐたのかと思ふほど、それぞれの都會から慰安婦が海防へ集つて來た。――幸田ゆき子はダラットとドユランの間にある、パスツール研究所の、規那園栽培試驗所のタイピストとして働いてゐた。昭和十八年の秋、ダラットに着いたのである。この地は海拔高一・六○○米位で、氣温も最高二五度、最低六度位で、高原地帶のせゐか、非常に住みいゝところであった。佛蘭西人で茶園を經營してゐるものが多く、澄んだ高原の空に、甘い佛蘭西の言葉を聞くのは、ゆき子には珍しかつた。

 ゆき子はふつと、富岡へ手紙を書かうと思つた。どんな事を書いていゝかは、判らなかつたけれども、書いて行くうちには、何とか心がまとまつて來さうであつた。富岡と同じ土の上に着いてゐるのだと思ふと、海防の收容所で、心細く虚無的になつてゐた氣持ちも、少しづゝ立ちなほつてきさうである。ゆき子は店の子供に頼んで、レターぺヱパアと封筒を買つた。




 ゆき子は氣が變つて來た。ゆき子は、まつすぐ東京へ出て伊庭を尋ねてみようと思つた。燒けてさへゐなければ、富岡に逢へるまで、まづ伊庭の處へ厄介になつてもいゝのだ。厭な記憶しかないが、仕方がない。靜岡には何のたよりもしなかつたので、自分の歸りを待つてくれる筈もない。――夜更けの汽車で、ゆき子は敦賀を發つた。船で一緒だつた男の顔も二人ばかり、暗いホームで見掛けたけれども、ゆき子は、わざとその男達から離れて後の列車に乘つた。驚くほどの混雜で、ホームの人達はみんな窓から列車に乘り込んでゐる。ゆき子も、やつとの思ひで窓から乘車する事が出來た。何も彼もが、俊寛のやうに氣後れする氣持ちだつた。南方から引揚げらしい、冬支度でないゆき子を見て、四圍の人達がじろじろゆき子を盗見してゐる。如何にも敗戰の形相だと、ゆき子もまた立つて揉まれながら、四圍を眺めてゐた。夜のせゐか、どの顔にも氣力がなく、どの顔にも血色がない。抵抗のない顔が狹い列車のなかに、重なりあつてゐる。奴隷列車のやうな氣もした。ゆき子はまた、少しづゝこの顔から不安な反射を受けた。日本はどんな風になつてしまつたのだろう‥‥。旗の波に送られた、かつての兵士の顔も、いまは何處にもない。暗い車窓の山河にも、疲勞の跡のすさまじい形相だけが、るゐるゐと連らなつてゐた。

 東京へ着いたのは、翌日の夜であつた。雨が降つてゐた。品川で降りると、省線のホームの前に、ダンスホールの裏窓が見えて、暗い燈火の下で、幾組かゞ渦をなして踊つてゐる頭がみえた。光つて降る糠雨のなかに、物哀しいジャズが流れてゐる。ゆき子は寒くて震へながら、崖の上のダンスホールの窓を見上げてゐた。光つた白い帽子をかぶつた、脊の高いMPが二人、ホームのはづれに立つてゐる。ホームは薄汚れた人間でごつた返してゐる。ジャズの音色を聞いてゐると、張りつめた氣もゆるみ、投げやりな心持ちになつて來る。そのくせ、明日から、生きてゆけるものなのかどうかも判らない懼れで、胸のなかゞ白けてゐた。ホームに群れだつてゐるものは、おほかたがリュックを背負つてゐた。時々、思ひもかけない、唇の紅い女が、外國人と手を組んで、階段を降りて來るのを見ると、ゆき子は、珍しいものでも見るやうに、じいつとその派手なつくりの女を見つめた。かつての東京の生活が、根こそぎ變つてしまつてゐる。

 ゆき子が、西武線の鷺の宮で降りた時、その電車が終電車であつた。踏み切りを渡つて、見覺えの發電所の方へ行く、廣い道を歩いてゐると、三人ばかりの若い女が、雨のなかを急ぎ足にゆき子のそばを通り拔けて行つた。三人とも、派手な裂地で頬かぶりをして、長い外套の襟をたててゐた。

「今日、横濱まで送つて行つたのよオ。どうせ、ねえ、向うには奥さんもあるンでせう‥‥。でも、人間つて、瞬間のものだわねえ。それでいゝンだろう‥‥。友達を紹介して行つてくれたンだけどさア、何だか變なものよねえ。自分の女にさア、友達をおつゝけて行くなンて、日本人には判らないわ‥‥」

「あら、だつて、いゝぢやないの。どうせ、別れてしまへば、二度と、その人と逢へるもンでもないしさア、氣を變へちやふのよオ。あたしだつて、もうぢき、あの人かへるでせう‥‥。だからさア、厚木へ通ふのも大變だしね、そろそろ、あとのを探さうかと思つてンのよ‥‥」

 ゆき子は、賑やかな女達の後から足早やについて行つた。そして、聲高に話してゐる女達から聞く話に、日本も、そんな風に變つてしまつてゐるのかと、妙な氣がしてきた。

 軈て女達は、ポストの處から右へ這入つて行つてしまつた。ゆき子はすつかり濡れ鼠になつて疲れてゐた。此のあたりは、南へ出發の時と少しも變つてはゐなかつた。細川といふ産婆の看板を左へ曲つて二軒目の、狹い路地を突きあたつたところに、伊庭の家がある。自分の、このみじめな姿を見せたら、みんな驚くに違ひない。ゆき子は石の門の前に立つて、暗い街燈の下で身づくろひをした。ずつぷりと髮も肩も濡れてゐる。落ちぶれ果てたものだと思つた。ベルを押してゐると、佛印へなぞ行つてゐた事が、嘘のやうな氣がして來た。玄關の硝子戸に燈火が射して、すぐ大きい影が、土間に降りたつたやうだ。ゆき子は動悸がした。男の影だけれど、伊庭ではない。

「どなた?」

「ゆき子です‥‥」

「ゆき子? どちらの、ゆき子さんですか?」

「佛印へ行つてました、幸田ゆき子です」

「はア‥‥。どなたをお尋ねですか?」

「伊庭杉夫はおりませんでせうか?」

「伊庭さんですか? あのひとは、まだ疎開地から戻つてはおられませんですよ」

 その影の男は、やつと、億くうさうに鍵を開けてくれた。濡れ鼠になつて、外套も着ないで、リュックを背負つてゐる若い女を見て、寢卷きを着た男は、吃驚したやうな樣子で、ゆき子を眺めた。

「伊庭の親類のもので、今日、戻つて來たものですから‥‥」

「まア、おはいり下さい。伊庭さんは、三年ほど前から、靜岡の方へ疎開してゐらつしやるンですがね」

「ぢやア、こゝはもう、伊庭はすつかり引揚げてゐるンでせうか?」

「いや、伊庭さんの代りにはいつてゐるンですが、伊庭さんの荷物は來てゐますよ」

 ゆき子達の話聲を聞いて、その男の細君らしいのが、赤ん坊をかかへて玄關へ出て來た。ゆき子は佛印から引揚げて來た事情を話した。伊庭と、この男との間は、家の問題でいざこざがある樣子で、あまりいゝ顔はしなかつたが、それでも、こゝは寒いから座敷へ上れと云つてくれた。

 敦賀の宿で、握り飯を一食分だけ特別につくつてくれた以外は、飮まず食はずの汽車旅だつたので、ゆき子は躯が宙に浮いてゐるやうだつた。廊下のミシンにぶつゝかつたりして、座敷へ通ると、伊庭の一家が何度も寢室に使つてゐた六疊間で、荷造りした荷物が疊もへこんでしまふ程積み重ねてあつた。佛印から引揚げて來たと聞いて、細君は同情したのか、茶を淹れたり、芋干しを出したりした。男は四十年配で、躯の大きい、軍人あがりの、武骨なところがあつた。細君は小柄で色の白い、そばかすの浮いた顔をしてゐたが、笑ふと愛嬌のいゝ笑靨が浮いた。

 その夜、蒲團を二枚借りて、伊庭の荷物の積み重ねてある狹いところへ、ゆき子は一夜の宿をとる事が出來た。ゆき子はリュックからレイションを二箱出して細君へ土産代りに出した。

 床にはいつて、寢ながら、こも包みの荷の中へ指を差しこんでみると、厚い木でがんじやうに打ちつけてあるので、なかに何がはいつているのかさつぱり判らない。話によると、暮までには伊庭が上京して來るので、二部屋ばかり空けなければならないと細君は云つてゐた。六人家内なので、いまのところ、どの部屋を空けるかゞ問題だけれど、自分達は空襲時代、一生懸命にこの家を護つたのだから、急にどいてくれと云はれても、どくところはないし、そんな事は、道に外づれてゐると云つた。伊庭も、何時までも田舍暮しも出來ないので、焦々してゐるのだろうと、ゆき子は、早々と荷物を送りつけて來てゐる伊庭一家の氣持ちが察しられた。みんな丈夫でゐるらしい事も判つて、かへつてゆき子は拍子拔けのするやうな氣持ちだつた。




 幸田ゆき子が佛印のダラットに着いたのは、昭和十八年の十月も半ば過ぎであつた。農林省の茂木技師一行に連れられて、四人のタイピストがまづ海防に着いた。――茂木技師は、佛印の林業調査に軍から派遣される事になり、同じ農林省で働いてゐる、タイピストを募つて、それぞれの部署に一人づゝのタイピストを置いて來る事になつてゐた。志願者は五人ばかりあつたが、幸田ゆき子も志願して一行に加はつた。――病院船で海防に着き、軍の自動車で河内へ出て、河内で、三人のタイピストが勤め先きを持つた。幸田ゆき子は高原のダラットへきまり、もう一人の篠井春子はサイゴンに職場を得た。一番貧乏くじを引いたのは幸田ゆき子である。地味で、一向に目立ない人柄が、さうしたところに追いやつたのかも知れない。額の廣い割に、眼が細く、色の白い娘だつたが、愛嬌にとぼしく、何處となく淋しみのある顔立ちが人の眼を惹かなかつた。軍の證明書に張つてある彼女の寫眞は、年よりは老けて、二十二歳とは見えなかつた。白い襟つきの服が似合ふ以外に、何を着てゐても、何時も同じやうな服裝をしてゐる女にしかみえない。サイゴンに行く篠井春子は、五人のなかでも一番美人で、一寸李香蘭に似た面差しがあつたので、幸田ゆき子なぞの存在は、誰にも注意されなかつたのだ。――二臺の自動車で、一行は河内を發つたが、タンノア、フウキ、ビンと走つて、最初の夜はビンに泊つた。河内から南部印度支那のビンまでは、自動車で三百五十キロ走つた。ビンのグランド・ホテルに宿を取つた。道々の野山は、野火の跡で黒くくすぶつてゐたり、またあるところでは、むくむくと黄ろい煙をたてゝ燃えてゐる林野もあつた。油桐や松の造林地帶がほとんどで、行けども行けども森林地帶のせゐか、篠井春子は、幾度も太い溜息をついて、わざと心細がつてみせてゐるところもあつた。ゆき子は馴れない長途の旅で、へとへとに疲れてゐた。タンノアといふところを出てから、長く續いてゐる黄昏の道を、自動車はかなりのスピードで走つたが、ビンへ近くなつてからは、昏くなつた四圍に、大きな蛾が飛び立つてゐて、自動車のヘッドライトに明るく照し出された道の方へ、紙片を散らしたやうに、白い蛾が群れだつて寄つて來た。

 ホテルの左手には、運河でもあるのか、水に反響する安南人の船頭の聲がしてゐた。食用蛙がやかましく啼きたてゝゐる。ビンロウや、ビルマネムの植込みのなかへ自動車を置いて、一行はホテルの部屋へ案内された。運河の見える、こざつぱりした階下の部屋に、篠井春子と幸田ゆき子は通された。

 春子は窓を開けた。運河の水音がしてゐる。橙色の燈のついた卓子には、二人の貧弱なトランクが竝んでゐた。桃色の花模樣の壁紙や、柔い水色毛布のかゝつてゐるダブルベッドは、如何にも佛蘭西人の趣味らしく、清潔で可愛いかつた。戰爭下の日本で、長らく貧しい生活にあつた二人にとつて、これはまるでお伽話の世界である。顔を洗つて、食堂で遲い晩食をとつてゐると、腕に憲兵の白い布を卷いた兵隊が、わざわざ女二人の身分證明書を見に來たりした。若い憲兵は、日本の女が珍しくなつかしかつたのだろう。――その夜、ゆき子も春子も、仲々寢つかれなかつた。日本を發つ時は、うそ寒い陽氣だつたのに、海防から、河内、タンノアと南下して來るにつれて、急に季節はまた夏の方へ逆もどりしてゐた。柔い、彈力のあるベッドに寢てゐると、仲ゝ寢つかれない。太棹の三味線でも聽いてゐるやうに、食用蛙が、ぽろんぽろんと雨滴のやうに何時までも二人の耳についてゐた。

 東京を發つ時の、伊庭の家での事や、友人達との壯行會や、陸軍省でのあわたゞしい注射の日が、夢うつゝに浮んで、ゆき子は、佛印にまで來るなぞとは夢にも考へられなかつた運命が、自分でも不思議でならなかつた。――伊庭杉夫は姉のかたづいたさきの伊庭鏡太郎の弟であつたが、杉夫には妻も子供もあつた。東京へ家を持つてゐる唯一の親類さきで、ゆき子は靜岡の女學校を出るとすぐ、伊庭杉夫の家へ寄宿して、神田のタイピスト學校へ行つた。杉夫は保險會社の人事課に勤めてゐて、實直な男だと云ふ評判であつたが、ゆき子が寄宿して、丁度一週間目の或夜、ゆき子は杉夫の爲に犯されてしまつた。女中部屋の三疊にゆき子は寢てゐた。何となく眠れない夜で、杉夫が臺所に水を飮みに行つてゐる物音をゆき子はうとうと聽いてゐたが、軈て、すつと女中部屋の障子が開いた。ゆき子は、それを夢うつゝに聽いてゐた。その障子はまた靜かに閉まつて、みしみしと疊をふむ音がした。重くかぶつてくる男の體重に胸を押されて、ゆき子ははつとして、暗闇に眼を開いた。革臭い匂ひがして、杉夫が何か小さい聲で云つたのが、ゆき子には判らなかつた。蒲團の中に、肌の荒い男の脚が差し寄せられて、初めて、ゆき子は聲をたてようとした。そのくせ、聲をたてるわけにもゆかないものを感じて、ゆき子は身を固くして默つてゐた。

 その夜の事があつて以來、ゆき子は、杉夫の妻の眞佐子に、顔むけのならないやうな氣がしてゐたけれども、ゆき子は、夜になると、杉夫の來るのが何となく待ちどほしい氣がしてならなかつた。杉夫は來るたびに、ハンカチをゆき子の口のなかへ押し込むやうにした。美人で、機智のある妻の眞佐子をさしおいて、目立たない自分のやうな女に、どうして杉夫がこんな激しい情愛をみせてくれるのか、ゆき子は不思議だつた。――ゆき子は三年を伊庭のところで暮した。タイピスト學校を出て、農林省へ勤めてゐた。眞佐子は杉夫とゆき子の情事は少しも知らない樣子だつた。たまに、眞佐子が子供づれで横濱の實家へ泊りに行つたりすると、杉夫は早くから寢床へ就いて、ゆき子を呼んだりした。ゆき子は、只、默つて杉夫の意のまゝにしたがふより仕方がない。將來に就いて語りあふといふでもなく、まるで娼婦をあつかうようなしぐさで、杉夫は、ゆき子をあつかつた。――ゆき子が、佛印行きの決心を固めたのも、かうした不倫から自分を拔けきりたい氣持ちで、事がきまるまでは、伊庭夫婦にも、靜岡の母にも、姉弟にも打ちあけなかつたのだ。いよいよ、佛印行きが本當にきまつてから、ゆき子は肉親にも知らせ、伊庭夫婦にも打ちあけた。杉夫は別に顔色も變へなかつた。

 ゆき子は、案外冷たい表情でゐる杉夫を盜見て、心のなかに噴きあげるやうな侮辱を感じてゐたが、自分が伊庭の家を出る事によつて、伊庭の心のなかに、太い釘を差し込むやうな、氣味のいゝものも感じた。眞佐子に對しても、ゆき子はかへつて憎しみを持つやうになり、時々、眞佐子の口から、「このごろ、ゆきさんはすぐふくれるやうになつたのね。早くお嫁さんにやらなくちや駄目だわ」と冗談にも、皮肉にもとれるやうな事を云つたりする。杉夫は、ゆき子がいよいよ二三日うちに佛印出發と聞くと、藥や、ハンドバッグや、下着の類を買ひとゝのへて來た。ゆき子は杉夫にそんな事をして貰ふのが口惜しくてたまらなかつた。眞佐子は眞佐子で、ゆき子に對して、杉夫のさうした心づかひが不思議で、反撥するものを持つてゐる樣子だつた。




 ゆき子は明け方になつて、杉夫の夢を見た。遠い旅に出たせゐか、妙に人肌戀しくて、奈落に沈んでゆくやうな淋しさになる。ここまで來てゐながら、日本へ歸りたい氣がしてならなかつた。ハンカチを口へ押しこむ時の、氣忙はしい杉夫の息づかひが、耳について離れない。厭だと思ひ續けてゐた杉夫が、こんなに遠いところへ來て、急に戀しくなるのは變だと、ゆき子は、杉夫との情事ばかりを想ひ出してゐた。きつと、杉夫は淋しがつてゐるに違ひない。只、あのひとは無口だつたから、別に、こみいつた事も云はなかつたけれども、佛印へ發つ日まで、二人の關係が續いてゐた。三年も關係が續いてゐて、どうして子供が生れなかつたのだらう‥‥。そのくせ、三年の間に、眞佐子の方には男の子が生れた。

 ゆき子は果てしもなく、いろいろな記憶がもつれて來る事に、やりきれなくなつて、そつと起きた。ヴェランダへ通じる硝子戸を開けると、運河はすぐ眼の前に光つてゐた。ビルマネムの大樹が運河添ひに並木をなして、珍しい小禽の聲が騷々しくさへづつてゐた。もやの淡く立ちこめた運河の上に、安南人の小船がいくつももやつてゐる。石造りのヴェランダに凭れて、朝風に吹かれてゐると、何ともいへないいゝ氣持ちだつた。地球の上には、かうした夢のやうな國もあるものだと、ゆき子は、小禽のさへづりを聽いたり、運河の水の上を呆んやり眺めてゐたりした。燕も群れをなして飛んでゐる。海防の濁つた海の色を境にして、何も彼も虚空の彼方に消えてゆき、これから、どんな人生が待つてゐるのか、ゆき子には豫測出來なかつた。

 早い朝食が濟んで、また自動車に乘り、南部佛印での古都である、ユヱへの街を指して、一行は發つて行つた。木麻黄の並木路を透かして、運河ぞひの苫屋からも、のんびりと炊煙があがつてゐた。廣い植民道路を、黄色に塗つたシトロヱンが、シュンシュンとアスファルトの道路に吸ひつくやうな音をたてゝ走つてゐる。

 ビンの街は、人口二萬五千あまりで、北部安南でもかなり重要な街だと、一行での男連中の話である。軈て、植民道路は高原のラオスにはいつて行く路と二つに分れた。時々、野火が右手の森林から煙を噴いてゐる。廣い森林地帶の中のユヱへの植民道路をかなり走つてから、やつと四圍に蒲陽が射し始め、晴々と夜が明けて來た。陽が射して來ると、空氣がからりと乾いて、空の高い、爽凉な夏景色が展けて來た。

 第二泊目はユヱで泊つた。こゝでも、一行はグランド・ホテルに旅裝をといた。日本の兵隊がかなり駐屯してゐる。ホテルの前に、廣いユヱ河が流れてゐた。クレマンソウ橋が近い。ゆき子は、こんなところまで、日本軍が進駐して來てゐる事が信じられない氣がしてゐた。無理押しに、日本兵が押し寄せて來てゐるやうな氣がした。このまゝでは果報でありすぎると思つた。そのくせ、このまゝ長く、この寶庫を占領出來るものなのかどうかも、ゆき子は考へてゐるいとまもないのだ。自動車が走つてゆくまゝに、身をゆだねて、あなた任せにしてゐるより仕方がない、單純な氣持ちだけて旅をしてゐた。かうしたところで見る、日本の兵隊は、貧弱であつた。躯に少しもぴつたりしない服を着て、大きい頭に、ちよんと戰闘帽をのつけてゐる姿は、未開の地から來た兵隊のやうである。街をゆく安南人や、ときたま通る佛蘭西人の姿の方が、街を背景にしてはぴつたりしてゐた。華僑の街も文化的である。都心の街路には、樟の木の並木が鮮かで、朝のかあつと照りつける陽射しのなかに、金色の粉を噴いて若茅を萠してゐた。赤煉瓦の王城のあたりでは、若い安南の女學生が、だんだらの靴下をはいて、フットボールをしてゐるのなぞ、ゆき子には珍しい眺めだつた。河のほとりの遊歩場には、花炎木や、カンナの花が咲いてゐた。河は黄濁して水量も多く、なまぐさい河風を朝の街へ吹きつけてゐた。

 旅空にあるせゐか、一行は七人ばかりであつたが、かなり自由に、解放された氣持ちになつてゐる樣子だつた。鑛山班の瀬谷といふ老人は、河内からずつと女連の自動車の方へばかり乘り込んで、篠井春子のそばへ腰をかける習慣になつてゐた。わざと春子の肩や膝頭に躯をくつゝけて、汗のにちやつくのもかまはずに、圖々しくみだらな話をしている。――サイゴンは小巴里だと云はれる程、巴里的な街だと聞いて、ゆき子は篠井春子が妬ましかつた。自分もそんな美しい街へポストを持ちたかつた。きまつてしまつたものは仕方がないけれども、さうした命令が、女にとつては、顔かたちの美醜にある事も、ゆき子はよく知つてゐる。ダラットといふ、聞いた事も見た事もない、高原の奥深いところで、平凡な勤めに就く運命が、ゆき子には何となく情けない氣持ちだつた。若い女にとつて、平凡といふ事位苦しいものはない。一年はどうしても勤めなければならない事も、心には重荷であつた。

 東京を發つ時、杉夫が佛印がいゝところだつたら、俺達も呼んでくれないか、せめて内地の戰時世相から解放されたいと冗談を云つてゐたけれども、杉夫も、保險會社なんかやめて、志願してでも佛印へ來てくれるといゝと空想した。

 ユヱで一泊して、海邊のツウフン驛から、一行はサイゴン行きの汽車へ乘つた。狹い可愛い車體だつたが、二等車は案外、贅澤な設備がしてあつた。ソフアや、小卓があり、小さい扇風機も始終氣忙はしく車室をかきまはしてゐる。部屋の隣りには、シャワーの設備もあつて、自動車の旅よりはずつと快よかつた。コオヒイを注文すると、まるで花壺のやうな、深い茶碗に、安南人のボーイが持つて來てくれる。こゝで、初めて、ゆき子は篠井春子と二人きりの部屋におさまる事が出來たのだ。汽車は動搖が激しく、コオヒイ茶碗の花壺のやうな しかけも、この動搖の爲なのだと判つた。自動車の旅と少しも變らない程、砂塵が何處からか吹き込んで來るのには、二人とも閉口だつた。どんな贅澤な設備も、黄ろい砂塵の吹きこむ列車は不潔である。春子は何時の間にどうした手段で求めたのか、絹靴下をはき、洒落れたラバソールをつゝかけてゐた。そして、汽車に乘る時から氣にかけてはゐたのだけれども、春子は、匂ひの甘い香水をつけてゐた。ゆき子は自分が慘めに敗けてしまつた氣で、學校時代のサージの制服を仕立なほした洋袴に、爪先きのふくらんだ、汚れた黒靴をはいてゐる事に、いまいましいものを感じてゐる。長い旅路で、紺の洋袴はかなり汚れて來てゐる。春子の化粧の濃くなつたのを妬まし氣に眺めながらゆき子は、

「篠井さんは、サイゴンに落ちつくなんて幸福だわね」と、云つた。

「あら、いゝところなのか、惡いところなのかは、行つてみなくちや判らないわ。幸田さんこそ、パスツウルの規那園なンて、とてもハイカラぢやないの?貴女は勉強家だから、すぐ、佛蘭西語も、安南語も覺えちやふでせう。とても、第一級のところぢやないの? 私、さう思ふわ。凉しくて、いゝ處なンですつてね‥‥」

 ゆき子は、春子が心のゆとりを持つて、慰めてくれてゐる事は、よく判つてゐた。

「でも、人間の數の少ないところつて、淋しいわ。第一、苦勞をともにして來た貴女たちに別れて、誰も知らない山の中へ行くなンて、淋しいのよ。退屈だらうと思ふの‥‥」

 行けども行けども、山野の波間を、汽車は激しい動搖で走つてゐる。

 サイゴンに着いたのは夜であつた。




 ゆき子は、かうした旅に馴れなかつたせゐか、へとへとに疲れてゐた。どうかすると、一日のうちに、幾度かわけのわからない熱の出る時もあつた。サイゴンでは、五日ほど暮す事になり、こゝでまた軍への手續きが相當手間どつて、獨りになつて街を見物する ゆとりは許されなかつた。サイゴンでは、軍の指定した旅館で、海防を出て以來、初めて、身分相當な貧しい旅館に落ちついた。四日目に、篠井春子は、軍報道部に働く中渡といふ男に連れられて、勤めさきの宿舍へ變つて行つた。ゆき子たちの旅館は、以前は華僑の住宅ででもあつたらしく、飾りつけの何もないがらんとした部屋々々に、折りたゝみ式のベッドがあるだけのもので、安南人の女が二人、ものうさうに部屋々々の掃除をしてまはつてゐる。茂木技師も、黒井技師も、瀬谷も、ゆき子と一緒にダラットへ出掛ける連中なので、食堂は何時も、此のグループだけが部屋の隅に集つた。しつくひ塗りの青い壁に、粗末な大きい地圖が張りつけてある。紫檀の脊の高い卓子が三つほど竝び、それぞれの用向きを持つて泊つてゐる連中が、こゝで食事をする。食堂へ來る顔ぶれは何時も流れるやうに變つてゐた。――離合集散の激しい食堂で、窓ぎはの凉しい場所に、何時も變らない顔が一人だけあつた。ふつと、ゆき子はこの男に注意を惹いた。食事中も、いつも本を讀むとか、新聞を讀んでゐた。別に、連れがあるらしくもなく、そこへ腰をかける時間も、場所も、判で押したやうだつた。色は青黒く、髮の毛の房々とした、面長な顔立ちで、じいつと本を讀んでゐる横顔は、死人のやうに生氣のない表情をしてゐた。夜になると、何處からか戻つて來て、誰もゐない食堂で、ウイスキーの壜を前に置いて酒を飮んでゐる。シャフスキンの半袖シャツを着て、茶色の洋袴をはいてゐるところは、ゆき子には安南人のやうにも見えた。ゆき子は熱があつたので、時々食堂へ氷を貰ひに行つたが、その男は、何時でも食堂の椅子に膝をたてた、不作法な腰のかけ方で酒を飮んでゐた。ゆき子が食堂へはいつて行つても、別に、ゆき子の方を注意するでもなく、ゆつくり孤獨を愉しんでゐるやうな范洋とした風貌をして、酒を飮んでゐる。此の宿舍の近くには、夜でも賑やかに、レコードやラジオを鳴らしてゐる華僑の飮食店が竝んでゐた。風のむきで、遠くかすかに、食堂のなかへ、父よあなたは強かつたの日本の曲なぞが流れて來る。食堂の隈で、藥を飮んでゐると、ふつと、ゆき子はこの曲に誘はれた。何といふ事もなく、酒を飮んでゐる男と話をしてみたい、冒險的な氣持ちになつてきた。ゆき子は、男といふものは、みんな杉夫のやうな性癖を持つてゐるやうであり、旅空のせゐか、誰の紹介もなく話しかけてもかまはないのではないかとも考へる氣分になり、そこに散らかつてゐる日本新聞なぞを、ゆつくり讀み耽つてゐたりした。

 男は、何ものにもとんちやくしない太々しさで、本を讀みながら、酒を飮んでゐる。酒を飮むと、肌に赤味がさして、白い半袖からむき出した、すくすくとのびた腕が、ゆき子の眼をとらへる。三十四五になつてゐるであらうか。名前も知らなければ、職業も判らないまゝで、別れるひとなのだと思ふにつけ、ゆき子は一人寢の、狹いベッドへ這入つてからも、その男の事が始終瞼を離れなかつた。

 五日目に、ダラットへ行くトラックの便があるといふので、茂木技師一行について、ゆき子はまた旅支度をした。――サイゴンは、昔、クメール族の名づけで、プレイ・ノコールと云つてゐた。森の都と云ふ意味である。トラックの上から見る、サイゴンの大通りは、ヨウの大樹の並木が、亭々と竝んでゐて、その樹下のアスハルトの滑つこい大通りを、輪タクに似たシクロが昆蟲のやうに走つてゐた。繁華なカチナ通りの、タマリンドウの街路樹の下に、水色の服を着た佛蘭西人の子供の遊んでゐるところなぞは、繪を見るやうだつた。タマリンドウの梨のやうな果實が、るゐるゐと實つて、まるで田園の感じである。道はちりつぱ一つなく、大樹の並木の下を、悠々と往來してゐる安南人や、華僑の服裝は、貧弱な日本の服裝を見馴れたゆき子には驚異であつた。急に篠井春子が羨しかつた。こんな美しい都にとゞまつてゐられる自體が妬ましいのだ。陽をさへぎつた、うつさうとした並木の下を、日本の兵隊が歩いてゐる。兵隊は、日本といふ故郷や、軍隊の背景も感じられない、孤獨なたよりなさで群れて歩いてゐた。歩いてゐるといふよりは、そこへ投げ出されてゐるといつた方がいゝかも知れない。トラックの上にゐる一行の顔も、長途の旅疲れもあるせゐか、膏の浮いた貧しい顔をしてゐた。ゆき子は、自分も亦その一人なのだと思ひ、何のほこりもない、日傭ひ人夫の娘にでもなつたやうな佗しいものが心をよぎつた。ゆき子は内地へかへりたかつた。ダラットがどのような土地なのか、もう、どうでもいゝのだ。人戀しくて、たつた獨りでダラットの高原へなぞ、住んではゐられない氣がする。篠井春子と別れた鑛山班の瀬谷は、手の裏を返すやうに、ゆき子へにこにこした顔をむけた。

「厭に悄氣てゐるンだね。元氣を出すんだよ。何處へ行つたつて、日本の兵隊がゐるンだ。何も心配する事はない。しかもだね、たつた一人の日本女性として、責任は重大なりだ。皇軍とともに働いて貰はなくちやいけない。ね、さうぢやないかね‥‥」




 ダラットにあと十六キロといふ、プレンといふ部落から曲りくねつた勾配になり、ランビァン高原への九十九折のドライヴウェイをトラックはぐうんぐうんと唸りながら登つた。夕方であつたが、時々沿道の森蔭に白い孔雀がすつと飛び立つて一行を驚かせた。

 夕もやのたなびいた高原に、ひがんざくらの並木が所々トラックとすれ違ひ、段丘になつた森のなかに、別莊風な豪華な建物が散見された。いかだかづらの牡丹色の花ざかりの別莊もあれば、テニスコートのまはりに、モミザを植ゑてあるところもある。金色の花をつけたモミザの木はあるかなきかの匂ひを、そばを通るトラックにたゞよはせてくれた。ゆき子は夢見心地であつた。森の都サイゴンの比ではないものを、この高原の雄大さのなかに感じた。三角のすげ笠をかぶつた安南の百姓女が、てんびんをかついでトラックに道をゆづるのもゐた。

 高原のダラットの街は、ゆき子の眼には空に寫る蜃氣樓のやうにも見えた。ランビァン山を背景にして、湖を前にしたダラットの段丘の街はゆき子の不安や空想を根こそぎくつがへしてくれた。以前は市の駐在部であつたといふ白堊の建物の庭にトラックがはいつてゆくと、庭の眞中に日の丸の旗が高くあげてあつた。地方山林事務所と書いた新しい看板が石門に打ちつけてある。その下に、安南語と佛蘭西語で小さく墨の文字で書いた板も打ちつけてあつた。湖の見える應接間で、一行は事務所長の牧田氏に會つた。ゆき子はこゝに當分働く事になり、ゆき子だけ安南人の女中に案内されて自分にあてがはれた部屋へ行つた。二階の一番はづれの部屋で、湖や街の見晴しはなかつたが、北の窓からは、ランビァンの山が追つてみえた。庭にはいかだかづらの花が盛りで、毛の房々した白い犬が芝生にたはむれてゐた。

 ゆき子は長い旅の果てに、やつと自分の部屋に落ちついたのである。チーク材の床には敷物もなかつたが、かへつて凉しさうだつた。何處からか運んで來たのであらう、粗末なベッドに、腰高な机と椅子が一つ。白いペンキ塗りの狹い洋服箪笥が、暗い部屋の調和を破つてゐた。ねぐらを求めて小禽が、夕あかりの黄昏のなかに騒々しくさへづつてゐた。茂木技師や、瀬谷たちは、ダラット第一級のホテルである、ランビァン・ホテルに牧田氏の自動車で引きあげて行つた。牧田喜三は、鳥取の林野局をふりだしに、農林省へはいつた人物ださうで、四十年配の太つた小柄な男であつた。昭和十七年の暮に、軍屬として、赴任して來た。部下は四人ばかりあつたが、みんなそれぞれが、山の分擔區に視察に出掛けてゐる樣子で、安南人の通譯が二人と、林務官一人、混血兒だといふ女の事務員が一人ゐる。――ゆき子はへとへとに疲れてゐた。ランビァン・ホテルへ一行とともに夕食の案内を受けたが、氣分が悪くて行く氣がしなかつた。ベッドの毛布の上に轉がつてゐると、トラックの震動がまだ續いてゐるやうで、耳の中がふたをしたやうに重苦しかつた。昏々と眠りたかつた。眼を閉ぢると、蝉の啼きごゑのやうな、森林のそよぎが耳底に消えなかつた。洋服箪笥のペンキの匂ひが鼻につく。

 その夜、ゆき子は、安南人の女中のつくつてくれた日本食を、廣い食堂で一人で食べた。中央には岩のやうなシュミネがあり、入口近いところにピアノが一臺光つてゐた。のりのきいたテーブルクロースの白い布に手を置くと、黄色の手が、安南人の女中の手よりも汚れた感じだつた。ガラスのフィンガボールにいかだかづらの花が浮かしてある。ソーセイジのやうな赤黒いかまぼこや、豆腐汁がゆき子には珍しかつた。女中はもう三十は過ぎてゐる年配であるらしかつたが、眼の綺麗な女だつた。額は禿げあがり、澁紙色の凹凸のない顔に、粉を噴いたやうな化粧をして、ねり玉の青い耳輪をはめてゐる。彼女は、かたことの日本語を少し話した。網戸をおろした廣い窓へ、白い蛾の群れが貼りついてゐた。食事を終つた頃、突然、前庭の方で、自動車のヱンジンの音がした。牧田所長がもう戻つて來たのかと思つたが、それにしては馬鹿に歸りが早いと、ゆき子はきゝ耳をたてゝゐた。女中が走つて出て、甘い聲で、ボンソアと庭口へ呼んだ。軈て、男の聲で何事か、ごやごやと話す聲と足音がして、ぱつと食堂へ這入つて來たのは、サイゴンの宿舎で會つた、ゆき子の注意を惹いてゐた、あの男であつた。脊の高い、さくさくした足どりで食堂へ這入つて來るなり、ゆき子を見て、一寸驚いた風で、輕く眼で挨拶をして、また、さつさと廊下へ出て行つた。

 ゆき子の食事が終つてからも、女中は仲々食堂へは戻つて來なかつた。ゆき子は赧くなつてその男に挨拶を返したが、部屋を出て行つたきり、一向に戻つて來る氣配もない樣子に、焦々してゐた。いまゝで死んだやうにぐつたりしてゐた氣持ちのなかに、急に火を吹きつけられたやうな切ないものを感じた。あわてゝ、しのび足で部屋へ戻り、ゆき子は洋服箪笥の鏡の中をのぞいて、濃く口紅をつけた。髮をくしけづり、粉白粉もつけて、また、急いで食堂へ戻つたが、網戸を叩く白い蛾の氣忙はしい羽音だけで、廣い食堂は森閑としてゐる。暫くして、女中がコオヒイを持つて來たが、すぐ、女中はコオヒイを置いて去つて行つた。いくら待つても、男はつひに食堂へは出て來なかつた。ゆき子は氣拔けしたやうな氣持ちで部屋へ戻つて行つた。廣い階段を誰かゞ上つて來る。ゆき子は激しい動悸をおさへて、扉に耳をあてゝゐた。ゆき子は物音が消えると、また食堂へ降りて行つた。所在なくピアノの蓋をとり、女學校時代よく彈いてゐた濱邊の歌を片手でぽつんぽつんと鍵を叩いてみた。壁には森林に就いての統計のやうなものが硝子縁のなかにはいつてゐる。カッチヤ松とか、メルクシ松、ヨウ、カシ、クリカシなぞの標本圖をたどつてゆくと、ゆき子はつくづく遠いところに來たやうな氣持ちがした。誰も食堂へはやつて來さうもないので、ゆき子は庭に出てみた。星が澄んできらめき渡り、ゴム風船をすりあふやうな、透明な夜風がゆき子の絹ポプリンの重たいスカートを吹いた。何處からともなく、香ばしい花の匂ひが來る。小徑の方で、ボンソア‥‥と挨拶してゐる女の聲がしてゐる。薄い雲が星をかいくゞつて流れてゐる。湖は見えない。部屋へ戻つて窓に凭れてゐると、暫くしてから、階下の何處かで電話のベルがけたゝましく鳴り、それからすぐ、牧田所長の自動車が戻つて來た樣子だつた。急に階下がざわめきたち、數人の男達の笑ふ聲が聞えた。




 夜明けに吹く山風で、ゆき子は松風の音を聽いた。朝の寢覺めに、あの男と、廣い芝生でテニスをしてゐる夢をみて、なつかしかつたが、その夢は思ひ出さうとしてもとりとめがなかつた。またすぐ、こゝを發つて行くひとだらうか‥‥。それにしても、同じ屋根の下に二度も吹き寄せられる人間の奇遇を、ゆき子は愉しいものに思つた。念入りに化粧をして、粗末な布地ではあつたが、白絹のワンピースを着て、朝の食堂に降りて行くと、牧田氏と、あの男が、網戸をあげた、廣い窓邊でコオヒイを飮んでゐた。血色のいゝ牧田氏は、にこにこして朝の挨拶をしてくれたが、あの男はゆき子に對して一べつもくれなかつた。窓へ足をあげて、不作法な腰掛けかたで、もやでかすんでゐる湖を見てゐた。情のないしぐさで、そんな風なスタイルを見せる一種のポーズが、ゆき子には、中學生のやうな がんこさに見えた。

「どうです?幸田さん、こつちへいらつしやい。道中が長いンで疲れたでせう? サイゴンでは、富岡君と同じ宿舍だつたンださうですね?」

 ゆき子がその男の方を不安さうに見たので、牧田氏は、小さい聲で、

「君、幸田君つてね、これから、當分こゝで、タイプの方をやつて貰ふひとなンだよ。半年位して、パスツウルの方へまはつて貰ふンだがね‥‥」と、云つた。

 男は初めて、幸田ゆき子の方へ躯を向けた。それでも腰かけたなりで、「僕、富岡です」と挨拶した。

「何だ、初めてなのかい? 紹介濟みかと思つてたンだよ。こちらは富岡兼吾君、やつぱり本省の方から來たひとで、三ケ月程前にボルネオから轉任して來たンだ。――日本の女のひとは珍しいから、もてゝ仕樣がないだらう‥‥。こゝぢや、幸田さん一人だからね」

 ゆき子は、革張りのソフアに遠く離れて腰をかけた。昨夜、ホテルのロビーで、瀬谷が、ゆき子の事を、地味な女だから、かへつて、仕事にはいゝだらう。サイゴンに置いて來た篠井といふ女は、これは一寸美人だから問題を起しはしないかと心配してゐるンだと話してゐたが、かうして遠くから見る幸田ゆき子の全景は、瀬谷の云ふほど地味な女にも見えなかつた。珍しくパアマネントをかけてゐないのも氣に入つた。第一、つゝましい。きちんとそろへたむき出しの脚は、スカートの下からぼつてりとした肉づきで、これは故國の練馬大根なりと微笑された。疊や障子を思ひ出させるなつかしさで、なだらかな肩や、肌の蒼く澄んだ首筋に、同族のよしみを感じ合掌したくなつてゐた。少々額の廣いのも、女中のニウよりは數等見ばえがした。混血兒のマリーのやうに、六角眼鏡をかけてゐないのも氣に入つた。日本の若い女が、はるばるとこの高原へ來て呉れた事が牧田氏には夢のやうなものであつた。昔は海外へなぞ出て行く女に對して、あまりいゝ氣持ちは持てなかつたのだが、幸田ゆき子は、牧田氏には案外印象がよかつた。化粧も案外上手である。瀬谷の云ふほどの女ではなかつた事が牧田氏を幸福にした。大きな卓上にはカンナの花が活けてあつた。牧田氏は至つて機げんよく富岡と専門的な話をしてゐた。ゆき子はうつとりして、明るい窓の方を見てゐたが、心はとりとめもなく流れてゐた。富岡は煙草をくゆらしながら、兩腕を椅子の後に組んで、後頭部を凭れさしてゐた。左腕の黒い文字板の時計に、赤い秒針が動いてゐた。アイロンのきいた茶色の防暑服を着て、凉し氣なプラスチックの硝子めいた細いバンドを締めてゐる。剃りたての襟筋が青々としてゐた。軈て食堂のベルが鳴つた。牧田を先にたてゝゆき子が富岡の後から食堂へ這入つて行くと、白いテーブルクロースの上に、白や紫の珍しい花が硝子の鉢に盛られ、アルマイトの赤い器に、豆腐の味噌汁が出てゐた。玉子燒や、桃色のあみの鹽辛なぞが次々に運ばれた。ゆき子は富岡と竝んで牧田氏の前に腰をかけた。ホテルに泊つた茂木、瀬谷、黒井なぞはまだ事務所に顔をみせない。天井にしつらへてある扇風機が厭な音で軋つてゐた。牧田氏は味噌汁をずるずるとすゝりながら、

「内地は段々住み辛くなつてるさうですが、こゝにゐれば極樂みたいでせう?」

 と、ゆき子へ話しかけて來た。極樂にしても、ゆき子はかつてこんな生活にめぐまれた事がないだけに、極樂以上のものを感じてかへつて不安であつた。富豪の邸宅の留守中に上がり込んでゐるやうな不安で空虚なものが心にかげつて來る。

 時々、富岡は、サイゴンの農林研究所の話や、山林局の佛人局長に對する日本の亂暴なやりかたに就いてひなんをしてゐた。第一、貧弱な日本人が、コンチネンタル・ホテルなぞにふんぞりかへつてゐる柄でないなぞと牧田氏も小さい聲で合槌打ちながら、あんな大ホテルを兵站宿舍なぞにして、軍人が引つかきまはしてゐる事は、占領政策としても、かへつて反感を呼ぶ事ではないかと話した。

「我々は幸福と云ふものだ。軍の目的は兎に角として、我々は自分の職分にしたがつて森林を護つてやればいゝンですよ。充分にめぐまれた仕事として、それだけは感謝してゐるからね‥‥」

 富岡は、十日ばかりをサイゴンに暮し、ルウソウ街にある農林研究所で、ガス用木炭に關する研究を行つてゐた。富岡は、パン食であつた。ふつと、手をのばして、バターの皿を取つてくれた幸田ゆき子の手を見た。肉づきのいゝ日本の女の手を、珍しさうに見た。

 美しい優しい手だと思つた。

 生毛が生えてゐる。

「四五日うちに、ランハンに行きたいと思つてゐます。竹筋混凝土の研究を、一寸見て來ようと思つてゐます。加野君が、薪炭林の中間作業に就いての詳細をよこしてゐましたが、御覧になりましたか。――木炭自動車も仲々馬鹿になりませんね。もう、内地でも木炭自動車にどんどん切りかへてゐるさうですが、こつちぢやア早くからやつてゐるンですからね――。加野君の書いたもの、いつぺん眼を通しといて下さいませんか。トラングボムの研究所にも行つて、加野君にも逢つてやりたいと思つてゐます‥‥」

 富岡はぼそりと、そんな事を云つて、さつさと先に應接間へ戻つて行つた。

「随分變つた方ですのね‥‥」

 無遠慮に部屋を去つて行つた富岡に對して、思はずゆき子は牧田氏に、こんな事を云つた。

「風變りな人間でね、だが、あれで、仲々情の深い男なンですよ。三日に一度、きちんと細君に手紙を書いてをる‥‥。私には仲々そんな眞似は出來ない。責任感の強い男で、一度引き受けたら、一つとして間違つた事がない奴ですよ‥‥」

 三日に一度、細君に手紙を書いてゐるといふ事が、何故だか、ゆき子にはがんと胸にこたへた。




 二日目の夕方、牧田氏は急用で、サイゴンからプノンペンまで事務上の用事で十日ほど出張する事になつた。丁度、歸途をともにする瀬谷老人と二人で、一行はトラックで出發した。茂木や黒井は、安南人の通譯の案内で、分擔區へ視察に出てゐて、あとへ殘つたのは、富岡とゆき子だけであつた。富岡は、二階の中央にある東側の一番いゝ部屋を持つてゐた。一番いゝ部屋といつても、清潔な病室のやうな部屋であつた。三日おきには、細君に手紙を書いてゐる富岡に對して、ゆき子は、妙に白々しい感情になつてゐた。食堂であつても、富岡は「おはよう」とか、「やア」とか云ふ位で、タイプの仕事は、マリーの方へまはしてゐるやうだつた。タイピストのマリーは、仕事に飽きて來ると、食堂へ行つてはピアノを彈いてゐた。その音色は高原のせゐもあつたが、仲々いゝタッチで、ゆき子には曲目は判らなかつたけれども、時々きゝほれてしまつた。富岡も、音樂が好きとみえて、仕事机で、呆んやりピアノに耳をかたむけてゐる。マリーは二十四五歳にはなつてゐるらしかつたが、眼鏡のせゐか老けてみえた。几帳面な家庭の娘だといふ話である。羚羊のやうなすんなりした脚で、何時もネイビイブルウのソックスに、白い靴をはいてゐた。腰の線がかつちりしてゐて、後から見る姿は楚々とした美しさだつた。髮は薄い金茶色で、ゆるいウェーヴをかけた斷髮が、肩で重たく波打つてゐる。何の藝もないゆき子は、マリーのピアノを聽くたび、人種的な貧弱さを感じさせられた。マリーは英語も佛蘭西語も、安安語も達者で、仕事もてきぱきしてゐた。何もわざわざ、この遠い佛印の高原にまで、ゆき子のやうな無能な女が呼びよせられる必要もないではないかと、ゆき子はふつとそんな事を考へる時があつた。ゆき子の仕事は邦文タイプを打つ仕事で、或ひは秘密な書類をつくる仕事に重要なのかも知れないと、自らを慰めて、無爲な時間を過すのだつた。

 牧田氏が急に旅立つたので、富岡のランハン行きは延びたが、五日ほどたつた或日、トラングポムから加野久次郎が、ひよつこり安南人の助手を一人連れてダラットへ戻つて來た。

 加野は戻つて來るなり、事務所の幸田ゆき子を見て、吃驚した表情で、顔を赧らめた。富岡の紹介で加野とゆき子は挨拶しあつた。物事に精根をかたむけ盡しさうな、ひたむきな青年らしさで、すぐ、富岡と椅子を寄せあつて、仕事の話を始めてゐる。

「何かい、少しは長くゐられるの?」

「どうも、下痢ばかりしちやつて、あまり工合もよくないしね、それに、ダラットの文明も戀しかつたンだ。富岡さんが戻つてるとは思はなかつた‥‥」

 長い話のあと、二人はこんな事を云つて、コオヒイを女中に持つて來させて、如何にもなつかしさうな間柄のやうであつた。加野は富岡よりは若く見えた。男にしては色が白く小柄で、紺の開襟シャツに白い半洋袴をはいて、スポーツ選手のやうな輕快さがあつた。躯つきとは反對に眼の色はいつもおどおどしてゐて、相手の顔を正しく正視出來ない氣の弱さがある。

 晩餐の食堂で、久しぶりに賑やかな食事が始まつた。アペリチーフに、富岡がサイゴンから手に入れた、白葡萄酒を拔いた。ゆき子にもさゝれた。

「幸田君は、千葉かい?」

 酒に醉つたせゐか、無口な富岡がふつと、ゆき子に、こんな事を尋ねた。

「あら、千葉ぢやないわ。失禮ね‥‥」

「え、さうかなァ、千葉型だと思つたンだがね。ぢやァ何處?」

「東京ですわ‥‥」

「東京? 嘘つけ。東京生れには、幸田君のやうなのはないよ、あれば、葛飾、四ッ木あたりかな‥‥」

「まァ! ひどい方ね」

 ゆき子は侮辱されたやうでむつとした。

 加野がみかねて、

「富岡さんは無類の毒舌家なンだから、氣にかけないでいらつしやい。これが、このひとの病なンですよ‥‥」

「さうかなァ、東京かなァ‥‥。江戸ッ子にしちやァ訛があるよ。幸田君はいくつ?」

「いくつでもいゝわ‥‥」

「二十四五かな‥‥」

「あら、私、これでも二十二なンですよ。本當にひどい方ねえ、富岡さんて‥‥」

「あゝさうか、二十二ね、女のひとが二十四五に見えるつてのは、利巧だつて云ふ事だよ。若く見て貰ひたいなンて愚かな事だ」

 富岡は今度は、コアントロウの瓶を出して來て、栓を開けた。加野は富岡と同じ東京高農の出で、先輩の富岡と安永教授の引きで佛印へ森林業の研究に赴任して來たのである。富岡も加野も文學好きで、富岡はトルストイフアンであり、加野は漱石信者であり、武者小路の心醉者でもあつた。

「はるばると佛印のダラットへ進駐して來た、幸田女史の爲に乾杯!」

 加野がさう云つて、グラスをゆき子の前へ差し出した。ゆき子は涙ぐんでゐた。抵抗したい氣持ちだつた。富岡は醉つた眼に、ゆき子の涙を浮べてぎらぎら光る眼差しを見た。その眼の色のなかには、不思議な魔力があつた。女房の眼のなかにも、時々こんな光りがあつたと思つた。わけのわからないとまどひで、富岡はコアントロウをぐつとあふつた。ゆき子は此の場に耐へられなくて、そつと椅子をずらして部屋を出た。二階の自分の部屋に上つて行くには、あまりに戸外は美しい夜であつた。ゆき子は夜露に光つた廣い路を降りて、あてどなく歩いた。

「氣にして、出ちやつたよ‥‥」

 加野は、ゆき子を二階まで追つて行き、ゆき子の部屋の扉を叩いたが、返事がなかつた。鍵が開いてゐたので、ノブをまはすと、燈火がかうかうとついたベッドの上に、女學生のはく、黒いパンツがぬぎすてゝある。加野は暫くそこに立つてゐた。

 食堂へ戻つてからも、加野は、黒いパンツが瞼にちらついた。

「取り澄ましてる女ぢやないか?」

 富岡が吐き捨てるやうに云つた。加野は外へ出て行つたらしいゆき子を考へて、探しに行つてやりたい氣持ちだつた。

「三宅邦子つて女優に似てゐないかね?」

 加野が云つた。

「そんなの知らないよ。若い女がこんな處まで來るのは厭だね」

「案外古いンだなァ‥‥。僕はダラットが一寸よくなつて來た‥‥」

「幸田ゆき子は、加野には似合はないよ」

 加野は、コアントロウを手酌でやりながら、血走つた眼で、天井の動かない扇風機の白いプロペラを見上げてゐた。富岡は如何にもものうさうに金網の窓ぶちに足をあげて、椅子の背に頭を凭れさしてゐた。

「何時まで、この生活が續くかなア‥‥」

 溜息まじりに富岡が云つた。

「勝つとは思へないよ」

 加野はけゞんさうな顔を富岡へ向けた。

「サイゴンで、そんな風に思つたンだ。ねえ、大きい聲ぢや云へないが、來年の春がやまぢやないかね?」

「奥地へ這入つてると、何も判らンが、そんな氣配があるの? 何かニュースあつた?」

「絶體に勝てやしないよ。それだけだよ」

「さうかねえ、俺は大丈夫だと、信じてゐるンだ。日本の海軍つてものは、どうしてるンだろう‥‥」

「策はあるンだらう‥‥。戰果が毎日擧つてるぢやないか」

 加野は、黒いパンツを瞼から取り去れないもどかしさで、立つて、扇風機のスイッチを入口へ押しに行つた。白いプロペラは、ネヂがきりきりとまはるとみるまに、ぶうんと唸り始めた。卓上の花が風に強くゆるぎだした。




 幸田ゆき子は暫くたつても戻つて來なかつた。富岡は扇風機の風に吹かれて、椅子の背に頭を凭れさしたまゝ眠つてゐる。

 加野は扇風機をとめた。そして、靜かに食堂を出て行つて、ゆき子を探しに戸外へ出てみた。ヒガンザクラのこんもりした暗い並木のあたりで、夜烏が啼いた。濡れて、ぴたりと動きがとまつたやうな空だつた。淡い燈かげが、樹間にちらついてゐる。山林事務所のすぐ下の方に、華僑の別莊風な、でこでこした建物があつた。暫く人も住まないと見えて、庭は荒れてゐたが、南洋バラとでもいふのか、雪のやうに小さい花をつけた、生垣の中に、かすかに歌聲が聞えた。日本の歌だ。あつ、このなかにゆき子がゐるのだなと、加野は芝生の方から這入つて行つた。虫がしきりに啼きたてゝゐる。背中の反つた、ゆつたりした木のベンチに、ゆき子が腰をかけて、歌つてゐる。

 ゆき子は加野だと判つてゐた。歌をやめて、暗い庭を透かすやうにして、立ちあがつた。

「どうしたの? 怒つたの?」

「何でもないのよ‥‥」

「歸らない? 夜霧にあたつちや毒だ。こんなところで、蚊にでもさゝれて、病氣しちやァ毒だよ‥‥」

「あとで、一人で歸ります‥‥」

「あいつはね、いゝ人間なンだけど、毒舌家なンだ。一つは神經衰弱もあるかも知れないね‥‥」

 加野は、ゆき子の肩へ手をかけたが、薄い絹地をとほして、案外柔い女の肉づきに、全身が熱くなつた。酒の醉ひがまはつたせゐか、自制するにはあまりに辛く、加野はゆき子の柔い肩の肉を、二三度熱い手でつかんだ。ゆき子は、くるりと加野の手をすり拔けたが、ゆき子自身も、自制出來ないやうな胸苦しさになつてゐる。本能的に、毒舌家の富岡を、ひどいめにあはせてしまひたいやうな、反抗の氣が湧いた。こんな、白い肉の男なぞ、少しも興味はないのだ。ゆき子は默つて立つてゐた。加野は、もう一度、不器用に、ゆき子のそばへ寄つて來た。遠くで、ホテル行きの、自動車のヱンジンがかすかに唸つて、往來してゐる。

 今日、トラングボムから戻つて來たばかりで、ゆき子に惹かれる氣持ちは、これは慾情だけなのかと、加野はちらりと、その思ひにかすめられたが、現在をおいては、他に此の女を得る機會がないやうな氣がしてゐた。加野はもう一度、ぴつたりゆき子に躯を寄せてみた。ゆき子はぎらぎら光つた眼差しで、加野を見つめた。むれた雜草や、花の匂ひが夜氣にこもつてゐる。時々、ちいつと草の莖が鳴つた。

「加野さん、私ね、内地では、どうにも仕樣がなくつて、こゝへ志願して來たンですの‥‥。加野さんは、お判りになるでせう? あの戰爭のなかで、若い女が、毎日、一億玉碎の精神で、どうして暮してゆけて? 私、氣まぐれで、こんな遠いところへ、來たンぢやないのよ‥‥。何處かへ、流れて行きたかつたの。――それを、富岡さんに、あんな、意地惡な事を云はれて、‥‥心にこたへない筈つてないでせう? 三人とも、日本人ですよ。――葛飾だつて、四ツ木だつて、よけいなお世話だわ。生き苦しい氣持ちで辿りついたものを、高いところから、せゝら笑ふなンて失禮よ‥‥」

 突然、ゆき子が甲高い聲で云つた。加野は、激情を宙に浮かしたまゝ、獸のやうに光つたゆき子の眼を覗き込んでゐたが、生き苦しくて、こゝへ來たのだと云はれて、ゆき子の背景にある、内地の状態がぐるりと眼に浮んだ。

「富岡は、酒に醉つてるンだよ‥‥」

 加野はさう云つて、また、大膽に、ゆき子の二の腕を、兩の手で強く握り締めた。

「厭ツ! 加野さんも、酒に醉つていらつしやるのねツ、私は、違ふのよ‥‥」

 ゆき子は固くなつて、云つた。眼を閉ぢたが、別に加野の手をふりほどきもしなかつた。矢庭に熱い加野の唇が頬に觸れた。咄嗟に、ゆき子が顔を動かした。加野の唇はゆき子の頬に突きあたつて、あへなく離れた。

 道の方で、「おーい、加野君!」と呼んでゐる、富岡の聲がした。加野は小さい聲で、ゆき子に、

「貴女も、後から戻つていらつしやい」

 と、云つて、素直に加野は、すたすたと草の中を分けて、道へ出て行つた。富岡は默つて草の中から出て來た加野に、急に不快なものを感じてゐる。加野は云ひわけめいた事も云はずに、默つて、富岡と歩調をあはせて、相手の不快らしい反射を浴びたまゝ、事務所の方へ戻つて行つた。夜氣は凉しく、夜霧で、靴がアスハルトに滑りさうだつた。

「内地はそろそろ雪だね‥‥」

 富岡が生あくびのあと、ぼつりと云つた。

「あゝ、歸りたい。一度でいゝから歸りたいなア‥‥」

 加野は、息苦しくて、流れて來たのだと云つたゆき子の、思ひ詰めた、さつきの言葉が胸に引つかゝつて返事もしなかつた。

「幸田ゆき子は、相當怒つてるの?」

 富岡が何氣なく、煙草を出して、長い紐つきのライタアを、指の先きで彈きながら云つた。

「あゝ、怒つてるね」

「さうか‥‥」

「いゝ娘だよ」

「ほう‥‥いゝ娘かね? 彼女は、娘なのかね‥‥」

「娘だよ。手ひどくやつゝけられた」

 かへつて、現在白状しておく方が好都合だと、加野は正直に告白した。富岡は、煙草を吸ひながら默つて歩いた。

「君は、内地に好きなひとはなかつたのかい?」

「なくもないさ‥‥」

「ふうん‥‥」

 加野は、曲り道で、後を振りかへつて見たが、ゆき子の姿は坂の下には見えなかつた。

「おい、明日、フイモンまで、自動車で釣りに行かないか?」

 富岡の道樂は釣りであつた。フイモン附近には、四つの飛瀑があり、富岡はフイモンは馴染みの場所である。加野は釣りに行く氣はない。そんな悠々とした氣持ちにはなれなかつた。久しぶりに山の中から戻つて來たのである。人間が見たかつたし、切ない感情が胸の中に渦を卷いて、こゝまで、戻つてゐるのだつた。久しぶりに富岡に逢つた事も嬉しかつたが、思ひがけない幸田ゆき子との出逢ひは、野火のやうに火を噴いた。黒いパンツを見た時の、脚のすくむ感情は、現在、加野にとつて、どうしやうもないのである。加野は返事もしないで、ぴゆつと犬を呼ぶ時の口笛を吹いた。自動車小舍の方で、微かに犬が吠えた。

「牧田さんはうまい事したなア、サイゴンとプノンペンでは、久しぶりのオアシスだね‥‥」

「うん」

「富岡さん、サイゴンで、面白い事あつたの?」

「面白い事なンかあるもンか」

「さうかなア‥‥。さうでもないだらう?」

「君も、トラングボムへ歸る迄に、一度、サイゴンへ行つて、さつぱりして來るンだね‥‥」

「サイゴンか‥‥。久しく行かないなア‥‥」

 加野は、サイゴンなんか、どうでもよくなつてゐた。今夜の、星あかりに見た、ゆき子の、獸のやうな眼の光りが忘れられなかつた。どうしても話しあつてみたかつた。そして、あの淋しさを慰めてやりたかつた。少し夜風に吹かれたせゐか、さつきの激しい動悸もおさまり、自分のせつかちな亂暴さが、後悔された。氣まぐれで、こゝへ流されて來たのではないと、泣きさうになつて云つた、あの思ひは、考へてみると、自分にも通じるものがあつた。兵隊に行くよりはいゝのだ。あの言葉は、忘れ去つてゐた古傷に、さはられたやうな痛さである。赤羽の工兵隊に召集されて、南京攻略に行つた時の、あの憂鬱な戰爭が、腦裡をかすめた。何といふ湖だつたか、暗い夜、船の中に女をしのばせて、あわただしいあそびかたをした思ひ出が、影繪のやうに加野の瞼に浮んだ。




 富岡は面白くもなかつたので、食堂の前で加野に別れると、さつさと二階へ上つて行つた。夜光時計を見ると、十一時をかなりまはつてゐた。部屋へ這入ると、女中のニウが、富岡の洗濯物を整理して、棚へしまつてゐた。にぶい動作で、片づけてゐる。富岡はゆつくり片づけてゐる、ニウの樣子にやりきれない淋しさになり、裏梯子から標本室の方へ降りて行つた。標本室に燈火をつけて、圓い木の椅子に、腰を掛けた。陳列に竝んだ、乾いた標本を、ひとわたり眺めながら、何のために、こんなところに所在なく腰を掛けてゐるのか、自分で自分が判らなくなつてゐた。

 部屋へ戻つて、久しぶりに妻へ手紙を書かうと思つた。サイゴンへ旅をして、十日あまり、故國へは音信もしてゐない。しみじみした淋しさの思ひは、妻へだけは云へるやうな氣がした。あらゆるものゝ乏しい内地にあつて、云ふに云へない苦勞を、一人で續けてゐるであらう妻の姿が、ほうふつとして浮んで來る。サイゴンで買つた、ミッチェルの口紅や、粉白粉を、近々好便を選んで内地へ送つてやりたいと、富岡は妻の邦子に、そんな事も書き添へてやりたかつた。

 咽喉が乾いたので、標本室を出て、食堂へ行つた。加野がまだ食堂で殘りのコアントロウをかたむけてゐた。

「幸田女史は戻つたやうかね?」

「あゝ、戻つて、自分の部屋へ行つた」

 富岡は、水を飮み、またゆつくりと二階へ上つて行つた。部屋には、もうニウはゐなかつた。富岡は扉に鍵をかけて、ベッドへ後ざまに寢轉んだ。バネがきしきしとたはむ音を聞きながら、じいつと、天井のくもり硝子の電燈を見つめてゐた。心に去來するものは、何もなかつた。水のやうな、淋しさのみが、しいんと、濡れ手拭のやうに、額に重くかぶさつて來る。横になつてしまふと、妻へ手紙を書く事も、ひどく、億くうになつて來た。軈て、富岡は黄ろいパジャマに着替へた。思ひをこめて洗濯してある、アイロンのすつきりしてゐる寢卷き‥‥。ニウの情けが哀れであつた。

 毛布を蹴つて、シーツに樂々と横になる。――食堂の扉がきいつと軋んで、ゆつくり二階へ上つて來る加野の足音がした。加野の奴、加野の奴と、ふつと、そんな言葉を胸のなかで富岡はつぶやく。幸田ゆき子のすくすくした躯つきが、妻の邦子に何處か似てゐた。第一に、言葉のニユゥアンスが通じたといふ、妙な發見が、富岡の心に響いた。同じ人種の男女に丈、通じあふ、言葉や、生活の、馴々しさが、こゝに一人現はれた、幸田ゆき子によつて示されたかたちだつた。――加野は、今夜は仲々眠れないと、富岡は、ふつと微笑した。軈て隣りの部屋では、亂暴に椅子を引き寄せたり、洋服箪笥を開けたりしてゐる、加野の焦々した氣配が聞えてゐた。

 富岡は寢つかれなかつた。標本室の電燈を消す事を忘れてゐたやうな氣がして、富岡はまた、のこのこ起き出して、廊下へ出て行つた。階下へ降りると、ニウが水色の部屋着を着て、標本室の入口に立つてゐた。

「燈火を、消し忘れたンで、降りて來たンだ」

 富岡が、安南語でさゝやくやうに云つた。

「私も、いま、燈火を消しに來たのです」

 ニウはさう云つて、自分で、長い部屋着の裾を前でつまむやうにして、脊延びをして、壁のスイッチを切つた。富岡は重たくぶつつかつて來る女の躯を抱きしめた。ニウが何か云ひさうだつたので、富岡はあわてゝ、ニウの唇に接吻した。長い接吻のあと、小柄な女の躯を壁に立てかけるやうにして、富岡は二階へ上つたが、ニウが、かすかに笑ひ聲をたてたやうな氣がした。二階の梯子を上りながら、富岡は銅像の團十郎のやうに、眼をむきながら、ゆつくりと部屋へ這入つた。

 靜かな晩である。

 風の吹く日は、山鳴りのやうな、松の唸りがするものなのだが、今夜は松の唸りも聞えなかつた。富岡は、松の森林を瞼に描いてみた。馬尾松の房のやうに、長い葉の頼りなさや、メルクシ松の箒のやうな形状、カッチヤ松の淡い色彩。小旗のやうな破れかぶれの枝工合なぞが、次々と瞼に現はれては消える。――南ボルネオの山林に、メルクシ松をたづねて歩いた時の山野の思ひ出が、また瞼にかけめぐつて來る。バンヂャルマシンの町で見た、五月信子の、慰問の芝居なぞがなつかしかつた。演しものは、「時の氏神」だつたかな‥‥。海のやうに廣い、黄濁した河幅いつぱいに、ヒヤシンスに似た、イロンイロンの大群の水草の流れには、富岡は驚いたものだつた。あれもこれも、過ぎ去つた一夢であらうか‥‥。植物は、その土地についたものでなければ、うまく育たないものなのだと、現に、このダラットの、山林事務所の庭先に、植栽されてゐる、日本の杉の育ちの惡さを、富岡は、民族の違ひも、また、植物と同じやうなものだと當てはめて考へてみる。植物は、その民族の土地々々にしつかり根づいたものではないのかと、妙な事を考へ始め出した。――ダラット近邊の、メルクシ松の分布圖面では、メルクシ松が、三五、○○○ヘクタールと云つたところで、どさくさで這入りこんだ、こんな、鈍才の日本の一山林官が、いつたい、どんな風に、よその土地の數字をのみこめると云ふのだ‥‥。幹形、木理麗はしいと云つたところで、大森林のメルクシ松を、世界の何處へ賣り出さうと云ふのだ‥‥。長年かゝつて成長させた、人の財寶を、突然ひつかきまはしに來た、自分達は、よそ者に過ぎなからうではないか‥‥。いつたい、これだけの雄大な山林を、日本人がどう處理してしまふのだらう‥‥。人間の心は自由である。富岡はうつらうつらと、とりとめもない、幼い事を考へてゐた。一向に眠れない。

 富岡は燈火を消した。

 燈火を消すと同時に、隣室の加野が、ドアを開けて、また、ゆつくりした足音をたてゝ、階段を降りて行つた。‥‥まさかと、妙な考へを打ち消しながら、富岡は耳をそばだてゝゐた。――暫くして、深い井戸に、水滴のしたゝるやうな音階で、食堂のピアノがぽつん、ぽつんと鳴つた。長い間の、山歩きの禁慾生活が、加野を物狂ほしくしてゐるのだと、富岡はきゝ耳をたてゝゐた。頭をしづかに枕に沈ませる。さつき、ニウとひそかに接吻した、自分のいやらしさが、急にむかついて來た。加野も自分も、戀ではないものを戀してゐるのだ。二人とも、内地にゐた時の、旺盛なヱスプリを失つてしまつてゐる。ダラットの高原に移植されて、枯れかけてゐる日本の杉のやうなものになりつゝある、自分達を、富岡は、何氣なく、南洋呆けかなと、咽喉もとでつぶやいてみるのだつた。




十一

「ボンヂゥウル‥‥」

 マリーの柔い、朝の挨拶が、階下の踊り場で聞えた。重い頭を枕から持ち上げて、富岡は、腕時計を眺めた。九時を指してゐる。そんな時間なのかと、ゆつくり起きて、富岡は暫くベッドで煙草を吸つた。づきづきと頭が痛んだ。何をしたらいゝのか、一向に、躯は動きたがらない。すべてが茫々としてゐる。小禽が可愛くさへづつてゐた。ゆつくりと窓を開けると、かあつとした高原の空と、緑は、お互ひに、上と下とが反射しあつてゐるかのやうな爽凉さであつた。澁色の、光つて冷たさうな服を着た、ニウが、廣い庭隅の花畑に立つてゐた。疲れを知らない、女の健康さが、富岡は憎くもある。長い接吻をしたあと、昆蟲のやうな笑ひ聲をたてた、ニウの心の中が、富岡には不思議であつた。思ひきりのびをして、また、ゆつくりと、ベッドに腰をかける。躯を動かす事自體に無意味なものを感じる。

 富岡は、顔を洗ひに洗面所へ出て行つたが、その序に、加野の扉を叩いてみた。返事がなかつた。ノブに手をかけると、扉はニスの匂ひをさせてすつと開いた。窓は開けつぱなし、床には服をぬぎすてたまゝ、加野は茶縞のだんだら模樣のパンツ一つで、裸でベッドに寢てゐた。むきたての玉子のやうな、蒼味がゝつたすべすべした肌で、うつぶせになつて眠つてゐる。唇は開いたまゝ時々、樋に水の溜るやうないびきをあげてゐる。天地無情の姿かなと、富岡は、加野の冷い肩を大きくゆすぶつて起した。加野はにぶく眼を開けた。昨夜の痴情の爲か、眼が血走り、視線がさだまらない樣子だつた。

 富岡は、そのまゝ洗面所に行き、冷たいシャワーを浴びた。朝になつたのだ、何事もないぢやないか‥‥。昨夜の妖怪變化は雲散霧消してしまつたのだ。大判のタオルにくるまり、急いで二階へ馳け上る元氣が出た。アイロンのきいた、白い半袖の上着に、ギャバヂンの茶色の長洋袴をはいて、鏡の前で苦手な髯剃り作業にかゝる。コオヒイの香ばしい匂ひが二階までのぼつて來た。教會の鐘が鳴り始める。

 身支度をとゝのへて、食堂へ降りて行くと、窓ぎはに、幸田ゆき子が、獨りで食事をしてゐた。

「お早よう‥‥」

 ゆき子は泣き腫れたやうな眼で、富岡の挨拶に微笑したゞけであつた。富岡は、ゆき子の優しい表情を見て、照れ臭かつた。そのまま怒つたやうに、自分の席へ行き、さつさと食事を始めた。食事を運ぶニウも、まるきり人が變つてしまつてゐる。佛像のやうな表情のない顔で、コオヒイや、トーストを運んで來る。事務所の方では、マリーの打つタイプの音が忙はしさうだつた。

 食事を濟まして、富岡は漂然と、四キロほど離れた、マンキンへ行く氣になつた。安南王の陵墓附近の、林野巡視の駐在所まで、一人で出掛けて行つた。氣持ちが屈してゐる時は、釣りに出て行くよりも、むしろ、森林を相手に自問自答した方が快適であらう。――ダラットの部落々々には、大小樣々の製材所があつた。キイッと、耳をつんざく、裂かれる樹木の悲鳴を聞きながら、曲りくねつた、勾配のある自動車道を、富岡は默々として歩いた。沿道は巨大なシヒノキや、オブリカスト、ナギや、カッチヤ松の森で、常緑濶葉樹林が、枝を組み、葉を唇づけあつて、朝の太陽を鬱蒼とふさいでゐた。空は切り開いた森の中を、河のやうに青く流れてゐた。人の歩いて來る氣配で、富岡が、ふつと後を振り返ると、意外な事には、幸田ゆき子が、白いスカートをなびかせながら、急ぎ足で歩いて來てゐた。

 富岡は、自分の眼のあやまりではないかと思つた。立ち停つてやつた。ゆき子は、息をはづませながら近寄つて來た。

「どうしたの?」

「私、今日の仕事、何をすればいゝンでせう?」

「仕事?」

「えゝ‥‥」

「加野君は?」

「とてもよく眠つていらつしやいますわ」

 安南人の林務官がゐる筈だが、來たばかりの幸田ゆき子には言葉が判らないのだ。

「牧田さん、何か、仕事を云ひつけてゆかなかつたの?」

「いゝえ、何もおつしやいませんわ‥‥」

 二人は自然に、マンキンの方へ歩を運んだ。富岡は默つて歩いた。ゆき子も默つて富岡の後からついて行つた。時々、軍のトラックや、自動車が通る。運轉してゐる兵隊が、日本の女を見て、はつと驚いたやうな表情で通り過ぎて行つた。ゆき子は富岡からわざと離れて歩いてゐる。

 何時までも富岡がものを云はないので、ゆき子はもう一度、小さい聲で「どうしたらいゝンでせう?」と訊いてみた。

 富岡はゆつくり振り返つて、

「この先に、安南王の墓があるンですがね。見物したらどうです?」と、怒つたやうに云つた。

 富岡は大股に歩いてゐる。ゆき子には、富岡が親切なのかどうか、少しも、判らなかつた。後姿を、ゆき子は卑しいと思つた。富岡は、ヘルメット帽子を手にぶらぶら振つてゐる。音のしないラバソールの靴が氣持ちよささうだつた。ゆき子も、やつとの思ひで、サイゴンで安い白靴を買ひ、いまもそれをはいてゐるのだ。

 路が二つに岐れた。狹い人道の方へ這入つて、暫く行くと、何時の間にか、富岡の歩調はにぶくなり、ゆき子と肩を竝べる位になつた。ゆき子は、あゝ自動車道路は、軍の自動車が通るので、あんなに大股に歩いたのかと、富岡の考へに思ひ當つた。

「昨夜は怒つたンだつて?」

「あら、何をですの‥‥」

「加野がね、幸田君がとても、僕を怒つてるつて云つた‥‥」

「えゝ、とても、こたへちやつたンです」

 富岡は、ヘルメットをかぶり、腰の圖嚢から植林地圖を出して、それを擴げながら歩いた。森の中で、山鳩が近々と啼き始めた。白い地圖の反射を受けて、富岡は思ひついたやうに、胸のポケットから、薄紅いサングラスを出して高い鼻にかけた。地圖は急に薄紅く染つた。空の細い隙間から、高原の強い日光がぎらぎらと道に降りそゝいでゐる。富岡は、日本の女と歩く事に、何となく四圍に氣を兼ねてゐた。内地の習慣が、遠い地に來てゐても、富岡の日本人根性をおびえさせてゐるのだ。




十二

 かうして歩いてゐる事も、氣紛れのやうな氣がしたが、何しろ、四圍は稀な巨大の常緑濶葉樹が鬱蒼として繁つてゐる。甘つたるく、ねばつこい花粉にとりかこまれてゐるやうな氣配が立ちこめてゐて、二人とも默つて歩くには息苦しい。飛行機が森林の上を姿もみせずに、唸つて飛んで行つた。陵墓附近は原生林が昏く續き、カッチヤ松や、ナギが亭々と原生林のなかに混生してゐる。この原生林を突き拔けると、十二三ヘクタアルのカッチヤ松の、人工播種造林地帶になる。このあたりの民家では、炭燒きの かまども見られた。

 ゆき子は歩き疲れてゐた。昨夜はよく眠れなかつたせゐか、歩くと、息が切れさうに、背中がづきづきと痛んだ。だが、時々深呼吸をすると、馬鹿に胸の中がせいせいと、凉しい空氣でふくらんで來る。そのくせ、ゆき子は森林地帶には少しも興味はなかつた。只富岡の脊の高い後姿に心は惹かれてゆく。もつと、互ひに近しくなりたい孤獨な甘さだけで、ゆき子は歩いてゐた。ファンタスチックな感情が、ゆき子をわざと孤獨な風に化粧させてしまふ‥‥。何時、富岡に振り返られても、旅空の女の淋しさを、上手にみせる哀愁の面紗を、ゆき子はじいつとかぶつてゐた。その面紗の後で、ゆき子はひとりで昂奮して、やるせなげに溜息をついてゐるのだ。

 富岡は振り返つた。

「疲れたでせう‥‥」

「えゝ」

「僕は半日で、十二キロ位は平氣だね。森の中はいくら歩いても、案外疲れないし、夜はよく眠れるンだけどなア」

「あのう、加野さんは、ずつと、こちらにいらつしやいますの?」

「まだ、當分はゐるかもしれないね‥‥」

「私、加野さんつて氣味が惡いわ」

「何故? 荒れてゐるせゐかね‥‥」

「昨夜、ひどく、お酒に醉つて、いらつしたンですのよ。怖いわ」

 富岡は默つて、ゆつくり歩いた。自分にしても、何となく寢苦しい一夜だつた昨夜の事が、唐突に、その原因に關聯があるやうな氣がしてきて、一種の憎惡を持つて、加野を考へてゐた――。富岡は自分の後に近々と歩いて來てゐるゆき子に、歩調を合せるべく立ちどまつたが、無意識に、自然に寄つて來たゆき子の肩をつかんで、小暗いナギの大樹の下で、強く抱き締めてゐた。ゆき子も案外自然であつた。ゆき子は激しい息づかひで、富岡の胸に顔をすりつけて來た。呆氣なかつたが、富岡はゆき子の顔を胸から引きはなして、ぼつてりした唇を近々に見つめた。言葉の隅隅まで通じあふ、同種族の女のありがたさが、昨夜のニウとの接吻とは、はるかに違ふものを發見した。氣兼ねのない、樂々とした放心さで、富岡はゆき子の赧らんだ顔を眺めた。眼をつぶつて、荒い息づかひを殺してゐるゆき子の顔面が、ひどく妻の顔に似通つてゐた。麻痺した心の流れが、現實には、ゆき子の重たい顔をかゝへてゐながら、とりとめもなく千里を走り、もつと違ふものへの希求に、焦つてゐる心の位置を、富岡はどうする事も出來ない。南方へ來て、清潔に女を愛する感情が、呆けてしまつたやうな氣がした。森林のなかの獅子が、自由に相手を選んでゐた境涯から、狹い囚はれの をりの中で、あてがはれた牝をせつかちに追ひまはすやうな、空虚な心が、ゆき子との接吻のなかに、どうしても邪魔つけで取りのぞきやうがないのだ。富岡は、何時までも長く、ゆき子を接吻してゐた。ゆき子はすつかり上氣して、富岡の肩に爪をたてゝ苛れてゐる。少しづゝ、心が冷えて來た富岡には、ゆき子の苛れた心に並行して、これ以上の行爲に出る情熱はすでに薄れてゐた。野生の小柄な白孔雀が、ぱたぱたと森の中を飛んで消えた。

 二人は暫く、森や部落や、廣い農園のあたりを歩いて、晝もかなり過ぎてから事務所へ戻つた。富岡はすぐ部屋へ行つてタオルをかゝへて、シャワーを浴びに行つたが、ゆき子は何氣なく事務室を覗いた。加野がたつた一人で窓ぎはの廣いデスクに凭れて、書きものをしてゐた。扇風機がとまつてゐるので、部屋の中は蒸し暑かつた。加野は、ゆき子を見むきもしないで、ペンを走らせてゐる。マリーは仕事を濟ませて戻つたのか、タイプライターにカヴアがかけてあつた。ゆき子はそのまゝ事務室を出て、二階へ上り、自分の部屋に行つたが、自分の部屋の扉が開いたまゝになつてゐるのが、厭な氣持ちだつた。誰かゞ、自分の部屋をみまはしたやうな氣がして、ゆき子はじいつと、ベッドや机の上を眺めてゐた。ベッドへ誰かゞ腰をかけてゐたやうな、深いくぼみが眼につくと、ゆき子は何となく、不安な氣がしてならなかつた。扉の鍵を閉めて、そつと靴のまゝベッドに寢轉んでみたが、少しも落ちつかない。開いた窓には、青い空だけが見えた。こんなところへ、何をしに來たのかと苛責に似た氣持ちも感じられて、一日一日氣忙はしく戰爭に追ひたてられてゐる、内地の樣子が、意味もなく、ゆき子の頭の中に、泡のやうに浮いては消えてゐる。この現實には、さうした、追はれるやうな氣忙はしさはなかつたけれども、石のやうに重たい淋しさや、孤獨が、躯の芯にまで喰ひ込んで來た。ゆき子は、時々微笑が湧いた。深いちぎりとまではゆかないけれども、一人の男の心を得た自信で、豐かな氣持ちであつた。もう、遠い伊庭の事などはどうでもいゝ。富岡の一切が噴きこぼれるやうな魅力なのだ。川のやうに涙を流して愛しきれる氣がした。冷酷をよそほつてゐて、少しも冷酷でなかつた男の崩れかたが、氣味がよかつたし、皮肉で、毒舌家で、細君思ひの男を素直に自分のものに出來た事は、ゆき子にとつては無上の嬉しさである。富岡の冷酷ぶりに打ち克つた氣がした。昨夜、たやすく、加野の情熱に溺れてゆかなかつた強さが、今日の幸福を得たやうな氣がして、ゆき子は何時の間にか、滿足してうとうと眠りに落ちてゐた。





 シャワーを浴びた富岡は、こざつぱりと服を替へて、階下の食堂へ降りて行くと、加野が、ヴェランダへ向つて、木椅子に呆んやり腰をかけてゐた。富岡はシュバリヱの植物誌の重い本をかかへて、加野の横の木椅子に腰をかけた。正面にランビァンの山を眺め、眼の下に湖が白く光つてゐた。誰もゐない後の部屋では、からからと扇風機が鳴つてゐる。富岡に命じられて、ニウが冷いビールと鴨の冷肉を大皿に盛りあはせて持つて來た。

「一杯どうだ!」

 富岡が加野に聲をかけると、加野はものうげにコップを手に取つた。小禽が騒々しく四圍にさへづつてゐる。ビールを飮みながら、景色を見てゐると、山の色が太陽の光線の工合で、少しづつ色が變つていつた。加野が默つてビールを飮んでくれる事も富岡には幸だつた。山も湖も、空も亦異郷の地でありながら、富岡は、佛蘭西人のやうにのびのびと、この土地を消化しきれないもどかしさがある。この土地には、日本の片よつた狹い思想なぞは受けつけない廣々とした反撥があつた。 おうやうにふるまつてはゐても、富岡達日本人のすべては、此の土地では、小さい異物に過ぎないのだ。何の才能もなくて、只、この場所に坐らされてゐる心細さが、富岡には此頃とくに感じられた。貧弱な手品を使つてゐるに過ぎない。いまに見破られてしまふだらう‥‥。だが、眼の前に見る湖の景色は、永久に心に殘る美しさだつた。誰も彼も日本人なぞには見むきもしてゐない土地で、日本人は蟻のやうに素早く、あくせくと、人の土地を動きまはつてゐるだけだ。極めて巧妙に實際的な顔をして、日本人はこゝまで流れて來てはゐるけれども。カッチヤ松の樹齡は五六十年に達する筈なのだが、何の用意もなく、どしどし伐採して、伐採の數字だけを軍へ報告する。數字は笑つてゐるのだ。モイ族を使つて、ダニムの河に流したり汽車で運んだりはしてゐるが、富岡に云はせると、伐採された木材が少しも自由に動いていないのであつた。伐採された木材は、貨車に溜つたまゝだつたし、ダニムの流れには、切り口の生々しいカッチヤ松や、オプリカスト・ナギなぞの大木が、川添ひにごろごろしたまゝで、伐採の數字だけが机から机を動いてゐるだけだつた。素朴で不器用なモイ族を怠惰な奴隷として、日本の軍隊は忙はしく酷使してゐた。――ビールを飮みながら、富岡は植物誌を讀み出した。何十年となく此の地にとどまつて、印度支那産物誌や、植物誌を書いた佛蘭西人のクレボーや、シュバリヱの著述は、富岡にとつては仲々得がたいものであり、佛印の林業を知る上には、この書物は、此の上ない不朽の名著であつた。

 加野も幾分醉ひがまはつて來たのか、さつきの不機嫌さが表情から消えて、思ひ出したやうに大きい聲で、

「幸田女史は眠つてゐるのかな?」と云つた。

「さア‥‥。何をしてるのかね」

「さつき、マンキンへ幸田君連れて行つたンでせう?」

「いや、後から來たから、一緒に見物の相手をしたまでさ‥‥」

「僕はあのひとに惚れてるンだ。承知しといて下さいよ‥‥」

「ほう‥‥」

「こだはるわけぢやないが、さつき、工兵隊の將校が來て、富岡さんとよろしく歩いてゐた日本の女は、何者だと聞いてゐたンで、早いなと思つたンですよ」

「厭にこだはるなア。‥‥只、歩いてゐたゞけだよ。車輛部の少尉だらう? そんな事を云つたのは‥‥」

「僕もすぐマンキンまで行つたンですよ。随分探したンだが、判らなかつた‥‥」

 富岡は湖の方にひそかに眼をむけてゐた。わざと森の小徑へはいつて行つた事を知つたらどうだらうと、ぞくつとしながら、

「誰でも女には眼が早いもンねえ‥‥」と、何氣なく云つた。

「いや、富岡さんの素早いのには驚いた。寢てる間に幸田君とマンキンへ行くなンざア、よろしくありませんよ。女つてものは、瞬間の雰圍氣が勝負なンだから、いかに毒舌家の富岡さんでも信用はならない。」

「後からついて來たンだよ。所長が仕事をいひつけて行かなかつたし、君は寢てるンで、僕に何をしたらいゝか訊きに來たと云つたから、見物でもしたらいゝだらうと、一緒に案内したわけだ。それきりだよ。別に約束して、行つたわけでも何でもないさ‥‥」

「まア、いゝですよ。僕は惚れたンだから、何とか、彼女にぶちあたつてゆくまでだ」

 邪魔をしないでくれといつた、はにかんだ微笑で、加野は自分でビールを二つのコップについだ。富岡は煙草に火をつけて、ゆつくり煙を吐きながら、心のなかで、もう遲いよと獨白してゐる。だが、考へてみると、遲くもない氣がした。あの場合、ゆき子の感情を生殺しのまゝでやり過した、自分の疲れかたは、只事ではないやうな氣もして來る。サイゴンへ旅立つ日まで、ニウとの毎夜の逢ふ瀬は、加野のやうな、肉體の凶暴さからは救はれてゐた。ニウとの情交も、かりそめのもので、富岡は妻の邦子以外に、心の戀情は發芽しなかつたのだ。所長の牧田氏も、富岡とニウとの間を薄々には知つてゐる樣子だつた。だが、牧田氏は所員の不始末に就いて、自分で責任を持つ限りにはあまり文句を云ふ人物でもない。富岡は牧田氏のそのおだやかさに甘へきつてもゐるのだつた。

 何時の間にか、太陽はオレンヂ色をふちどりして、ランビァンの山の方へかたむきかけてゐた。湖が金色の針をちりばめたやうに、こまかに小波をたててゐる。食堂の奥から油臭い匂ひがたゞよつて來た。夕暮の美しさは、ひとしほ、二人の男に考へ深いものを誘つた。

「これで、こゝは平穩だが、内地は大變なンだらうなア‥‥。戀愛をするなんざアぜいたくかな‥‥」と加野が云つた。

「この戰爭は勝つと思ふかね?」

「そりア勝つにきまつてゐますよ。いまさら、敗けツこはないでせう‥‥。こゝまで來て敗けたりしちやア眼もあてられない。私は、敗けるなンざア考へてもみない。牧田さんもあんたも、妙な、不安にとりつかれてゐるが、もし、萬が一にも、敗けたとなれば、私はその場所で腹を切つてしまふ‥‥」

「さう簡單には腹を切れないよ。敗けるとは思ひたくないが、敗ける可能性は、君、あるらしいンだぜ。なるべく、さうした問題には觸れたくはないが、どうも、耳にはいるニュースはいゝ面ばかりぢやない。此の土地のものが一番敏感だからね。一種の日本人的スタイルで、強引には押してはゐるが、手持ちの金も銀も飛車もありやアしないンだ。何となく日本的表象の影が薄くなつたね。圓熱しないまゝで途方に暮れて、そこらを引つかきまはしてゐるのさ‥‥。戰爭を合理化する爲に、色々と策はねつてゐるンだらうが、それからさきの才能がとぼしいンだ。何しろ、猿に刃物的なところもあるンだよ‥‥」

「あんまり無氣味な事を云はないで下さいよ。まア矛盾もあるにはあるでせうが、乘るかそるかやつてみない事にはね。最惡の場合は、玉碎だ。死にやァいゝでせう、死にやァ‥‥」

「無責任だね」

 富岡は吐き捨てるやうに云つて、トイレットに立つて行つた。富岡が食堂を出て行くとすぐ、入れかはりに、幸田ゆき子が、寢たりた顔で食堂へはいつて來た。ギンガムの紅い格子のワンピースを着て、ひどくめかしこんでゐた。髮をブルウの細いリボンで結んでゐた。加野ははつとして、暫く振り返つて、ゆき子を眺めてゐた。

「晝御飯も食べないで、おなかゞ空いたでせう?」

 加野が椅子をすゝめながら云つた。ゆき子は素直に、加野のそばの椅子に腰をかけて、素肌の脚を組んだ。金色の太陽の光線で、ゆき子の顔がぼおつと浮いてみえる。唇が血を吸つたやうに紅く光つてゐる。日本的な香料の匂ひがした。加野はなつかしい氣がして、何の匂ひだらうかと鼻をうごめかしてゐたが、椿油の匂ひだと思ひ當つた。ゆき子の髮が艶々と光つてゐた。加野はポケットから部厚い角封筒を出して、素早くゆき子の膝に置いた。

「あとで、讀んで下さい」

 とつさに、ゆき子はその封書を白いハンケチにくるんだ。富岡がのつそりとトイレットから戻つて來た。わざとゆき子の方に一べつもくれないで、金色の太陽をまぶしさうに暫く眺めてゐた。加野は食堂からコップとビールを持つて來て、ビールをついで、ゆき子に渡した。

 ぎこちない沈默が暫く續いたが、軈て、富岡は重いシュバリヱの本をかゝへて、默つて椅子を離れて食堂を出て行つた。加野は、富岡が素直に氣を利かせてくれたのだと思ひ込んでゐる。




十三

 雨は土砂降りになつた樣子だ。

 樋をつたふ雨聲が瀧のやうに激しくなり、ゆき子はふつとまた現實に呼び戻される。くさくさして、仲々寢つかれない。佛印での華やかな思ひ出が、走馬燈のやうに頭のなかに浮きつ沈みつしてゐる。夜更けてずんと冷えて來たせゐか、一枚の蒲團だけでは寒くて寢つかれなかつた。泥のやうに疲れてゐながら、露營をしてゐるやうな落ちつきのなさである。誰も力になつてくれるものゝない抵抗しやうのない淋しさで、暗がりに眼を開いたまゝ、ゆき子はじつと激しい雨の音に耳をかたむけてゐた。伊庭がこの家にゐなかつた事は倖であつた。もう一度、昔のむしかへしはないけれども、伊庭との間に四ケ年の月日の空間を置い事は、ゆき子にとつて有難いのであつた。誰も顔見知りのないところで、ごろりと寢轉んでゐる。ゆき子には佛印でそんな習慣には馴れきつてゐた。海防の收容所では、篠原春子とも逢はなかつたし、春子の樣子を知つてゐる女達とは誰にも逢ふ機會がなかつた。加野は終戰前にサイゴンの憲兵隊へ連れて行かれたまゝだつたし、最後までゐた富岡は、幸運にも、五月の船でゆき子より一足さきに内地へ引揚げて行つた。五月から今日まで、富岡の心が、どんな風に變つてゐるかは判らなかつたが、逢ひさへすれば、二人の間は解決するのだと、ゆき子は自信を持つてゐた。自信を持つ事が氣が樂だつたせゐもある。

 その翌日、雨は霽れてゐた。からりとした初冬の空が、雨あがりの濕氣を吹きはらつてゐた。荒れた狹い庭の柿の木には霜を置いたやうな小粒な澁柿がいくつか實つてゐた。柿の木が大きくそだつてゐる事に、四年の歳月があつたのだとゆき子はうなづいた。同居人の細君は、眞黒い麥飯だけれど召し上つて下さいと云つて、朝の卓にゆき子を呼んでくれた。主人公は夜明けに早く出て行つた樣子だつたが、細君の話では、信州へリンゴを買ひに行つたのだと云つた。郷里が信州なので、このごろリンゴのブロォカーを始めたのだが、早晩、果實の統制がはづれる樣子だから、靜岡へ鹽を買ひに行つて、鹽を信州へ持つてゆき、信州から味噌を持つて來てみようかと思ふとも云つた。

「伊庭さんとの間がうまくいつてましたら、伊庭さんにお世話願つて、鹽を手に入れたいのですけれど、何しろ、うちのひとゝきたら伊庭さんにいゝ氣持ち持つてませんのでね。何處か、鹽を賣つてくれる處、御ぞんじぢやありません?」

 ゆき子は一向にそんなところは知らなかつた。食卓には八ツの男の子を頭に、七ツの女の子と三ツの男の子と赤ん坊がゐる。主人の末弟が同居してゐるのだが、今日は二人でリンゴを取りに行つたのださうだ。

 ゆき子は何でもして働く氣持ちもないではなかつたが、富岡に逢つてから方針をきめたいと思つた。伊庭の荷物のある部屋でよければ當分ゐてもいゝと細君が云つてくれたので、ゆき子は吻つとして、その好意に感謝した。――以前の職場に戻れるものかどうかもいまのところは判然りとはしない。かへつてゆき子は、以前の職場へ戻りたい氣は少しもないのであつた。朝食後、細君に教はつて、近所の酒の配給所に電話を借りに行つた。農林省の富岡のデスクに電話を掛けてみたが、女の聲で、富岡といふ人は省をやめてしまつてゐると教へてくれた。ゆき子は思ひ切つて、上大崎の富岡のアドレスを頼りに尋ねてみる氣になり、出むいて行つた。目黒の驛を降りて、切通しの下を省線の走つてゐる道添ひに、人に聞きながら歩いて行つた。伏見之宮邸の前を通り、燒け殘つた邸町を、番地を頼りに歩いた。電車で見る窓外の景色は大半が燒け野原で、何も彼も以前の姿は崩れ果てゝしまつてゐるやうな氣がした。やつとその番地を探しあてゝ富岡の名刺の張りつけてある玄關を眼の前にして、ゆき子は妙に氣おくれがしてならなかつた。同居してゐるらしく、別の名札が二つばかり出てゐた。荒れ果てた家でどの硝子にも細いテープでつぎたしてあつた。夜來の雨で洗はれた矢竹が、箒のやうに、こはれた板塀に凭れかゝつてゐる。細君に顔をあはせるのが厭であつたが、電報を打つても返事も來ないところをみると、自分で尋ねてゆくより方法がない。ゆき子は思ひ切つて硝子のはまつた格子戸を開け、農林省からの使ひだと案内を乞ふた。五十年配の品のいゝ老婦人が出て來て、すぐ奥へ引つこんだが、思ひがけなく着物姿の脊の高い富岡がのつそり玄關へ出て來た。富岡はさほど驚いた樣子もなく、下駄をつゝかけて外へ出ると、默つてゆつくり歩き出した。ゆき子も後を追つた。知らない小道をいくつか曲つて、燒跡の續いた淋しい通りへ出ると、富岡は初めて、ゆき子を振り返つて、

「元氣だね」と云つた。

「電報、御覽になつて」

「あゝ」

「何故、返事くれないの?」

「どうせ、東京へ出て來ると思つた」

「お勤めは、おやめになつてるのね?」

「七月にやめた」

「いま、何をしてるの?」

「親父の仕事を手傳つてる‥‥」

「さつきの方、お母さま?」

「うん」

「よく似ていらつしたから、さうぢやないかと思つたわ」

「君、何處にゐるの?」

「鷺の宮の親類の家‥‥」

「君、こゝで一寸待つてるかい?」

「えゝ、待つてゐます」

 富岡は支度をして來ると云つて、もと來た道へ引返して行つた。紺飛白の着物を着た後姿に、人が違つてしまつたやうな妙な氣配が感じられた。ゆき子は燒跡の石塀のこはれたのに腰をかけて、暫く寒い風に吹かれてゐた。黒いサージの洋袴に、同居の細君に借りて來たブルウの疲れたジャケツ姿の自分が、ひどく荒凉としたその景色にしつくりしてゐた。危險な訪問だつたと、今頃になつて顔が火照つて來た。

 三十分も待つた頃、富岡が洋服姿でやつて來た。幾分かは昔のおもかげがあつたけれども、疲れた冬服のせゐか、ダラットで見た頃の若々しさが失はれて、何となく、くすぼつて見えた。ひどく痩せてもゐた。石塀の崩れた處へ腰を降ろしてゐるゆき子を、遠くから眺めて、富岡は、何の感動もなかつた。舞臺がすつかり變つてしまつてゐるこの廢墟では、ダラットでの夢をもう一度くりかへしてみたいといふ氣はしなかつた。苛ら立つた心をおさへて、もう終末の來る斷定だけで、富岡はゆき子のそばへ歩み寄つた。鸚鵡のやうにもう一度、

「元氣だね」と云つた。

「えゝ、あなたに逢ひたい一念で戻つたのですもの、元氣でなくちや」

 ゆき子は念を押すやうにして、まぶしさうに下から富岡をしみじみと眺めた。富岡は唇に微笑を浮べて、返事もしなかつた。別れるといふ斷定が、二人の間に狹まつてゐるのを、引揚げたばかりのゆき子には見えないに違ひない。電報を見て以來、富岡はあまりいゝ氣持ちはしてゐなかつたが、それでも責任だけは果さなければなるまいと考へてゐた。あんまり惡黨だと思はれないうちにとも考へてゐたが、現實にゆき子に逢つてみると、そんな考へもいまは必要ではなく、あつさり、今夜一晩で別れられるやうな決斷力が出た。「何處へ行くかね?」ゆき子に聞いてみたが、ゆき子は何處も知る筈がない。このごろ、池袋に小さい旅館が出來てゐると誰かに聞いてゐたのを思ひ出して、富岡は池袋へ行つた。煎餅のやうな生木の薄いバラック旅館が、いくつも建ちかけてゐた。気儘放題に家が建ち竝んでゐる。市場あり小料理屋あり。ひしめきあつてゐる急速の混雜状態が、かへつて女を連れてかくれるには、かつかうの市街であつた。看板だけはホテルと名のついてゐる、木造の小さい旅館に、富岡は硝子戸を開けて這入つて行つた。髮ふり亂した蒼い顔の女が、チュウインガムをくちやくちややりながら、靴をはいてゐたが、ろくろく紐も結ばずに、扉に躯をぶつゝけるやうに戸外へ出て行つた。ゆき子は寒々とした氣になつてゐる。――二人が案内された部屋は、市場が眞下に見える二階の四疊半だつた。疊は汚れ、點々と煙草の燒け跡があつた。床の間も何もない。緑色の壁には幾つも引つかいた筋がついてゐた。部屋の隅に汚れた赤い無地の蒲團が、二枚積み重ねてあつた。その蒲團の上に、覆ひのない枕のサラサは油でべとべとに光つてゐた。

 富岡は金を出して、ワンタンと酒を注文した。卓子も火鉢もないがらんとした部屋では、二人とも取りつきばもないのだ。富岡は壁に凭れて、長い膝小僧を抱いた。ゆき子は蒲團に片肘ついて横坐りになると、ジャケツの胸の上から大きなまるい乳房を、叩くやうにして掻いてゐる。

「世の中つて、こんなに變つてるとは思はなかつたわ」

「敗戰だもの、變らないのがどうかしてるさ‥‥」

「さうね‥‥。あゝ、でも、私、とつても、あなたに逢ひたかつたのよ。あなた、いやに冷いのね。引揚げて來たものなンか、もう同情しないンでせう?」

「馬鹿云つちやアいけない。俺だつて引揚げだよ。君ばかりぢやない。澤山俺達のやうなのはゐる」

 何もさう、引揚げだからと、自分だけが偉いもののやうに、氣負つてゐる云ひかたをするゆき子の無作法なのが、富岡にはあまりいゝ氣持ちではなかつた。いきなり泥水のなかへ寢轉んで動かうともしないゆき子の馴々しさが、富岡にはなじめない。ゆき子は、激しい男の感情を待つてゐた。誰も見てゐない、たつた二人きりのこの圍ひのなかで、最初に逢つた時のやうなよそよそしさでゐる富岡の心が判らなかつた。ダラットでの二人きりの理解はこんなに時がたてば儚いものだつたのだらうか‥‥。些細な事にはこだはつてはゐられない、荒波のしぶきに鍛へられて、ゆき子は大膽ににじり寄つて、富岡の膝小僧にあごをすゑた。

「どうして、そんなに知らないふりしてるの?」

「何を?‥‥」

「私が、厭なのでせう?」

「何を云つてるンだい。女つて呑氣だね‥‥」

「呑氣ぢやないわ。私、捨てられるンだつたら、こんなにして戻つて來ない、加野さんと一緒に戻つて來たわ。――私、判つたのよ、富岡さんの氣持ちが‥‥」

「馬鹿な事を云ふもンぢやない。加野は加野だ。君があんな風にしむけた罪があるンだ。女は誰にでも尻尾を振つてゆく氣があるンだ。あんな處では、女は無上の天國だからね‥‥。誰にも愛されるのは、女にとつて、いゝ氣持ちだらう‥‥」

「まア‥‥。今頃、そんな事言つて、厭! 急にそんな事言つて、私をいじめるのでせう。もう、私に愛情もないンぢやありませんか‥‥。いゝわ、私だつて、さつき、こゝの玄關で見た女みたいになつてみせるわ。もう誰にも遠慮しないで、私はどろどろにおつこちて行きます‥‥」

「そんなにヒステリックになるもンぢやない。俺だつて、内地へ戻れば、ダラットの時のやうな、責任のない暮しは出來ないよ。只、ダラットの生活の續きを内地で持たうといふ事は無理だと云ひたかつたンだ。君の生活に就いても大いに力になつてあげようし、俺だつて、その位の責任は持つ氣だよ」

「どんな責任?」




十四

 酒に醉つて來た爲か、富岡は少しづゝ氣持ちが明るくなり、曖昧な心のわだかまりから、解放されて、このまゝまた元通りの危險な關係に墜ち込んでゆく勇氣が出た。家庭とか幸田ゆき子の問題とか、そんなごみごみした現實からは、飛び離れた空想でいつぱいになりながらも、自分の躯のなかの人間的な淋しさは、自分の考へなぞはふり捨ててしまつて、やつぱり、そこに横になつて、泣いてゐる女を、抱きかかへたくなつてゐる。日本に戻って來ると同時に、ゆき子への思ひ出を否認しつゞけて、少しづゝ記憶が薄れかけて來てゐる處へ、また、かうして眼の前に幸田ゆき子を見ると、富岡は何の準備もなく、己れの運命の斷層を見せられた氣がした。富岡は、今度は、自分の方からにじり寄つて行つて、ゆき子のそばへ肩を竝べた。

「私、思ひ出すわ。いろんなこと‥‥。あの頃つて、私も、あなたも狂人みたいだつたわね。チャンボウの保存林を視察に行く時、牧田さんと、内地から來た何とかと云ふ少佐のひとゝ、あなたと、自動車に乘る時、急に、あなたが、幸田さんも行きませんかつて云つてくれて、少佐のひとも、さうださうだ、幸田孃も連れて行かうつて云つて、四人でチャンボウへ行つたでせう? 何ていふ宿屋だつたかしら、安南のホテルに泊つて、ランプで御飯を食べて、みんなお酒を飮んで、醉つて、眠つたのよ。一番はづれの部屋があなたのところだつて、覺えておいて、私、夜中に、裸足で、あなたの部屋へ行つたわね。竝んだ部屋の前は沼になつてゐて、森で氣味の惡い鳥の啼き聲がしたわ。ドアには鍵もおりてなかつたので、そつとノブをまはすと、安南人の番人が庭に立つてゐたンで、吃驚しちやつた‥‥。でも、あの時が、あなたとは、初めてだつたでせう?」

 ゆき子が、富岡の手を取つて、指をからませながら、こんな事を云つた。富岡は、あゝそんな事件もあつたと思つた。兵隊が血を流して死んでゆく最中に、女と二人でたはむれてゐた當時の氣の狂つた日常が、富岡には夢物語のやうでもある。

 馬小舍のやうに、境の壁がついたて式になつてゐたので、どんな物音も筒拔けに聞える粗末な部屋だつた。眼を閉ぢるとすぐ、さうした二人でだけ知つてゐる思ひ出が、瞼の中に走つて來た。カッチヤ松の林床には、カルカヤや、チガヤが繁り、ところどころに、ボタンやヤマモ丶や、ユーゲニヤが點じてゐて、富岡にしても、チャンボウの森林はなつかしい土地である。二人の苦力が組になつて、伐倒や玉切りをして、一日やつと立木四本位を切り倒す位だつたかなと、森林官としてチャンボウへ出張してゐた頃を富岡は思ひ出してゐた。このあたりの樵人は、おもにモイ族とか、安南人を使つてゐたが、みんなマラリヤを怖れて、募集の布告を出しても、仲々あつまりが惡く、富岡は率先して、自分で、苦力を募つてチャンボウへ何日も出掛けて行つたものだつた。山の中では、手挽の製材小舍を建てゝ、そこで小角物や板材に挽いてダラットへ軍のトラックで送り出した。苦力の日給は全く安い比弗でこきつかつたものだつたが、終戰寸前も、あの苦力達は、富岡になついて、日本の敗戰を薄々と知りながらもよく働いてゐたものだ。

「ねえ、もう、私達、二度と、あんな佛印の山奥なンて、行ける時ないでせうね。あすこで、二人で一生苦力になつて、木を切つて暮してもいゝつて話し合つてたわね」

「うん‥‥」

「あなたが、そんな事云ひ出したンだわ」

「もう、二度と行けやしないよ」

「さうね。行けやしないわね。加野さんが、あんな事件を起さなければ、二人は、終戰の時に、あのチャンボウへ逃げ込んでたかも知れなくてよ。人間つて、何處でも、自由に住めるつてわけにゆかないものなのね。自然と人間がたはむれて、樂しく暮すつてわけにゆかないものなのかしら?」

 富岡にしたところで、かうしたごみごみした敗戰下の日本で、あくせく息を切らして暮す氣はしないのである。野生の呼び聲のやうなものが、始終胸のなかに去來してゐた。イエスの故郷が本來はナザレであるやうに、富岡は、自分の魂の故郷があの大森林なのだと、時々戀のやうに郷愁に誘はれる時がある。

 何時の間にか夕方になつた。

 窓の下の市場は喧噪をきはめて、燈火が賑やかに光り出した。ゆき子は一人で部屋を出て行つて、壽司と、カストリ酒をビール壜一本買つて來た。歸るところも、行くところもないゆき子にとつては、一寸でも長く富岡と一緒に話してゐたかつた。二人ともカストリの醉ひがまはるにつれ、このまゝ泥々に溺れこんでも仕方がない氣持ちになつて來るのだ。――富岡は自然に、ゆき子に觸れた。何の感動もなく、晝間から敷き放しの蒲團に二人は寄りそつて、こほろぎの交尾のやうな、はかない習慣に落ちてしまふのである。日の落ちるのを眼の前にして、ゲッセマネに於いての、殘酷なほどの痛ましい心の苦鬪を、もう一人の分身として、そこに放り出されてゐる現實の己れに富岡は委ねてみる。神若し我等の味方ならば、誰か我等に敵せんやである。この女と共に行くべきであるとも、富岡は想ふ。兩親も家庭も、かりそめの垣根でしかあり得ない氣がして、もう一度、その垣根を乘り越えて、この女と人生を共にすべきだと、富岡は醉ひのなかで、誰かの聲を聞くのだつた。日本人の萠芽期はすでに去つたのだと、彼は自分の醉ひのなかで、自分で大演説をしなければならないやうな錯覺にとらはれてゐるゆき子を抱きかゝへて、久々で二人はしみじみと唇を噛み合はせてゐた。

 夜になつてからは、旅館のなかも少しづゝ騒々しくなり、時々は、無作法な夜の女が、部屋を間違へて、ゆき子達の襖を開けたりする。二人は平氣で離れなかつた。風のかげんか、省線の電車の音が轟々と耳につく。蒲團の上にぬぎつぱなしの二人の洋袴が、人間よりもかへつて生々とみだらにみえた。

 ゆき子は、富岡の躯にあたゝめられながらも、もつと、何か激しいものが欲しく、心は苛だつてゐた。こんな行爲は男の一時しのぎのやうな氣もした。伊庭との秘密な三年間にも、こんな氣持ちがあつたのを、ゆき子は思ひ出してゐる。もつと力いつぱいのものが欲しいといつたもどかしさで、ゆき子は富岡から力いつぱいのものを探し出したい氣で焦つてゐた。富岡も亦、女を抱いてゐながら、灰をつくつてゐるやうな淋しさで、時々手をのばしてはビール壜のカストリを、小さい硝子の盃にあけてはあほつた。時々、ゆき子も一息いれては、壽司をつまんだ。まだ、夜がいつぱいあるやうな氣がして、壽司を舌の上にくちやくちやと噛みしめながら、ゆき子は、疊の上に火照つた脚を投げ出したりしてゐる。夥しい二人だけの思ひ出がありながら、實際には、必死になつてゆくほど、相反する二人の心が、無駄なからまはりをしてゐるに過ぎないのだつた。これからの、先途について、二人は語りあふでもなく、一切の現實を忘れて、ひたすら、昔の情熱を、もう一度呼び水する爲の作業を試みてゐるやうなものであつた。時々、二人は力が拔けるやうな淋しい氣になり、この貧弱な環境のせゐなのだと、そつと、お互ひに鼻を寄せあつて、相手の息の臭さにやりきれなくなつてゐるのだつた。

「あなた、とても痩せたわね」

「美味いもの食はないせゐだよ」

「私も痩せたでせう?」

「さうでもない‥‥」

「だつて、抱いてみて違はない? 奥さんとどつちが太つてゐる?」

 富岡はまた手をのばして、盃の酒を唇のなかへかつとあけた。

 富岡は、お互ひの噴火はすでに終つてゐるのだと思つた。二人とも見誤つてゐるのだ。本質的に二人とも、この敗戰の底にずんずん沈みこんで、噴出する火を持たなくなつてしまつてゐる。只忘れてゐる。

「ねえ、加野さんには、私、可哀想な事をしたつて思つてゐるわ。あなたがあんまり、私を可愛がつてくれるから、私、加野さんをからかつてしまつたのよ。――でも、加野さんなら、私とよろこんで死んでくれる人ね。あの人は本當にうたがふつて氣持ちのない人ですもの。‥‥戰爭だつて、あの位、日本が勝つつて信じこんでた人もないでせう? いゝ人だつたわね。二人の伴奏者としては申し分ない人物よ」

「君はひどい女だね」

「さうかしら‥‥。でも、女つて、そんなところもあるンぢやない?」

 富岡はなるべく加野の事を思ひ出したくなかつた。時々、加野の事を云ひ出すゆき子の心理には、何時までも加野を伴奏者として、二人の昔の情熱の呼び水にしてゐる惡い好みがないとは云へない。富岡は疲れてしまつた。ゆき子は少しも疲れないで、壽司をつまんでゐる。色がはりした、黒いまぐろをつまんで、平氣でお喋舌りしてゐる。沒落しつこのない原始的な女の強さが、富岡には憎々しかつた。赤い蒲團から、洗つたやうな艶のいゝ顔をしてゐる女の顔が卑しく見えた。

「何を考へてゐるの?」

「何も考へてはゐない」

「奥さんの事でせう?」

「馬鹿!」

「えゝ、私は馬鹿よ。女は馬鹿が多いのよ。男はみんな偉いンでせう? 馬鹿に責任を持つなンて氣の毒みたいだわ。未來の事なんか考へないで、かうして、眼のさきのあなたにすがりついてゐるなンて、馬鹿以外の何ものでもないわ。ね、さうでせう‥‥。はるばる戻つて來て、でも、逢へて、とても嬉しいのよ。それだけなのよ。――でも、私、海防で、あなたが奥さんと逢つてるところ考へて、とても厭だつたの‥‥。奥さんつて、どんな方? 美しい人なンでせうね。教養があつて、綺麗で‥‥」

 ゆき子は眼の前に呆んやり、富岡の妻を描いてみた。申し分のない美人の楚々とした姿が眼の前に現はれて來る。富岡はゆき子のおしやべりを聞きながらうとうとしてゐた。

「君が歸るまでには、きちんと解決して、奥さんとも別れてしまつて、さつぱりして、君を迎へるつて云つたのは嘘ね。男つて嘘吐きよ。女を口の先でまるめて、自分の境界はちやんとしておくのね。私を、こんなところへ連れて來て、思ひ知らせるなンてひどいわ。日本へかへつたら、何も彼も昔の生活をきれいにして、君と二人で、日傭ひ人夫でもして生きようなンて云つて‥‥」

 ゆき子は涙をいつぱい溜めた眼を閉ぢて、富岡の肌をなでてゐた。腰骨がごつごつしてゐた。美味いものを食はないからと云つた男のざらついた肌が哀れだつた。ゆき子は自分の下腹に手をやり、すべすべしたなめらかな肌ざはりに神秘なものを感じてゐた。どうして、こんなに生きた女の肌はつるつるしているのかと不思議だつた。國が敗けたつて、若い女の肌には變りはないものかしら‥‥。もう一度、そつと、富岡の下腹にゆき子は手を觸れてみた。

「明日になつたら、右と左に別れて、また、こんなとこで逢つて、あなたは醉つて眠つてしまふンでせう‥‥。遠いところから戻つて來ても、あなたは少しも何とも思つちやゐないンだわ。私が、はるばる戻つて來るなンて奇蹟ぢやないの。色んな事心配して、ダラットの時のやうに可愛がつてくれなくちや厭! ねえ、起きてよ。眠つてしまふなンてひどいわ。眠るなンて厭よッ!」

 ゆき子は富岡の肌をきゆつとつねつた。

 富岡はうとうとしてゐたが、つねられて醉眼を開いた。不思議なところにゐる氣がして、四圍を眺めた。だが、睡魔はおそつて來る。また落ちくぼんだ眼を深く閉ぢ、「うるさいねえ、もう、君も疲れてるから、少し眠るといゝよ。何時までも、昔の事なんか考へたつて仕方がないよ」と云つた。

「まア!随分薄情な人だわ。昔の事があなたと私には重大なンだわ。それをなくしたら、あなたも私も何處にもないぢやないンですか? まだ若いくせに、年寄りみたいになつて、榮養不良で、元氣がなくて、疲れてるつて厭だわ。日本は自由になつたつて云ふンぢやないの? 隣りの部屋では、あんなに、甘つたれてゐるぢやないのよ‥‥。起きて、そんなお爺さんみたいな疲れかたしないでよ。――起きないのなら、私は明日奥さんのところへ話しに行つてよ。いゝ?」




十五

 富岡と別れて、ゆき子が鷺の宮の伊庭の家へ戻つて來たのは、翌日の晝過ぎであつた。

 判然りした約束を取り交はしたわけではなかつたが、二人が、一緒になるにしても、一應、時をかけなければ、うまくはゆかないと云ひきかされて、ゆき子は仕方がないと思つた。

 近いうちに、兎に角、ゆき子の落ちつき場所をみつけてくれると云ふ事と、さつそく、まとまつた金も作らうと富岡が云つた。男の一時のがれのやうな氣がしないでもなかつたが、かうした出逢ひのなかでは、富岡の言葉を信用しないわけにはゆかない。

 池袋の驛で富岡に別れたが、富岡はすぐ雜沓の中へまぎれ込んで行つた。ゆき子は心細い氣がして、暫くホームの柱に凭れて、電車から吐き出される人や、乘り込む人の波を見つめてゐた。長い間の戰爭に扱使はれてゐた、營養のない顔が、犇きあつて、ゆき子の周圍を流れてゐる。

 ゆき子は目的もなかつた。

 鷺の宮へ戻つたところで、別に、誰もゆき子を待つてくれる人もない。靜岡へこのまゝ戻つてみようかとも考へたが、東京を去るには、やはり富岡に強く心が殘つてゐる。その執着は、初めて富岡に逢つてみて、形の違ふものになつて來てゐたが、ゆき子は、一應、富岡に逢へた事は嬉しかつた。それにしても、ゆき子も亦、このまゝでは、富岡の重荷になるだけだと、心の中にひそかに承知してゐるところもあるのだ。まづ、この群衆の生活のなかに、自分も這入つて行つて、働く道を求めなければならないのだと思ひ、ふつと、品川の驛で見たダンスホールを思ひ出してゐた。何と云ふ事もなく、ダンサアになつてみようかと思つた。

 華やかな音樂の流れのなかに、化粧をした變つた自分の姿を置いてみるのだけれども、現在の自分の姿からは、さうした職業は實感としては不可能のやうな氣がした。

 富岡から、ほんのわづかな小遣ひを貰つてゐたので、ゆき子は新宿へ出てみた。何年ぶりかで見る新宿は、相變らずの雜沓だつた。知つた顔は一人もいないのが、ゆき子には他郷を歩いてゐるやうな氣がした。新型の自動車が走り、しはしはした寒い歩道を、群衆は着ぶくれして歩いてゐる。硝子のない巨きな建物の前へ來ると、あゝこゝが三越だつたのだと、ゆき子は高いビルを見上げた。ビルにそつて右へ曲ると、いくつもの小路のなかに、地べたに店を擴げてゐる露店市が、ぎつしりと竝んでゐた。鰯を石油鑵から掴み出して賣つてゐる。小さい硝子箱には飴もある。ピラミッドのやうに積み上げた蜜柑を賣る店、ゴム靴屋、一ぱい五圓の冷凍烏賊を竝べてゐる店、どんな路地の中にもさうした露店市が路上にあふれてゐた。荒凉とした燒跡の瓦礫には、汚ない子供達がかたまつて煙草を吸つてゐた。

 ゆき子は、一山二拾圓の蜜柑を買つて、瓦礫の山へ登り、そこへ腰をかけて、蜜柑をむいて食べた。舊弊で煩瑣なものは、みんなぶちこはされて、一種の革命のあとのやうな、爽凉な氣がゆき子の孤獨を慰めてくれた。何處よりも居心地のよさを感じて、酸つぱい蜜柑の袋をそこいらへ吐き散らした。

 かうした形の革命は、容赦なく人の心を改革するものなのか、流れのやうに歩いてゐる群衆の顔が、ゆき子にはみんな肉親のやうになつかしかつた。

 いまごろは、富岡はあの家へ戻つて、細君に、一夜の外泊をどんな風に云いわけしてゐるのかとをかしかつた。富岡の事だから、何氣なくふるまつてゐるに違ひない。家族のものは、富岡に對して、不安を持たないだらう。ゆき子はさうした事が妬ましく考へられた。内地へ戻つて來たら、その日にも、富岡が迎へに出てゐて、二人で新居にうつれるものと空想してゐた甘さが、ゆき子には口惜しかつた。

 晝過ぎになつて、ゆき子は鷺の宮へ戻つた。二つばかり殘つた蜜柑を、子供達へくれて、伊庭の荷物のある部屋へ這入つたが、人氣のない部屋は寒くて淋しかつた。

 ふつと思ひついたやうに、ゆき子は伊庭の荷物を眺め、何かめぼしいものを探して賣つてしまひたい氣がした。さうした事が、伊庭へ對するふくしゆうのやうな氣がした。めぼしいものを賣つて、當分の生活費にして暮しても惡くはないやうな氣がした。荷物をほどくにしても、自分の預けてあるものを探すのだと云へば、此の家の人達は怪しまないだらう。また、たとへ、伊庭が來て、荷物がなくなつてゐるのを知つても、ゆき子のやつた事ならば、とがめるわけにもゆくまいと思へた。

 夕方になつて、ゆき子は此の家の人からさつま芋を分けて貰つて、一緒にふかして貰つた。

 芋を食べながら、猫間障子の硝子越しに狹い庭を見てゐると、汚れた躑躅の植込みに、小さい痩せた三毛猫がじいつと何かをうかがつてゐた。春さき、牡丹色の花が咲いた躑躅を思ひ出して、昔のことが、まるで昨日のやうに思へた。猫は暫くしてから、のそのそとものうげに垣根のそばの、枇杷の木の下をくゞつて外へ出て行つた。

 ゆき子は障子を開けて、廊下へ出て行き、猫を呼んでみたが、仔猫は戻つては來なかつた。




十六

 富岡は、二三日はゆき子の事を考へてゐたが、ゆき子を落ちつかせるべき家の事も、金をつくる事も何時か忘れるともなく忘れて、このまゝで、ゆき子との交渉は途切れてしまひたい氣持ちでゐた。窒息しさうな程、ゆき子との邂逅は息苦しく、ゆき子がこのまゝ自由に自分の方向へ進んで行つてくれる事を祈つた。

 富岡は、このごろ材木商の知人と共同で、山へ木材の買ひ出しにかかつてゐた。近々、北信州の田舎に出掛けて、杉材の仕入れにかゝりたかつたのだが、知人の資金關係が仲々うまくゆかなかつたし、木材の流筏が、山からの荷出しには、相當の困難だつたので、毎日のびのびになつてゐた。それさへうまくゆけば、多少の金も手にはいつたし、闇の材木は飛ぶやうに高價で賣れてゆく時勢だつたので、少々の冒險はやつてみたい氣持ちでいつぱいだつた。日本へ戻つて來て、富岡は、つくづく官吏生活には厭氣がさしてゐたので、この機會をとらへて、自分の人生を變へてみたいとも考へてゐた。

 今日も、知人の材木商の田所に、電話してみたが、資金があと、四五日は日數がかゝると聞いて、がつかりして戻つて來た。歸るなり、妻の邦子が、女のひとが尋ねて來ましたと報告した。明日、池袋の ほてい商會まで、お出で願ひたいと、云ひおひて戻つたと聞いて、ゆき子だなと思つた。

 ほてい商會と云ふのは、池袋で泊つたホテイ・ホテルの事だつた。富岡は一寸厭な氣がして浮かない顔つきだつた。邦子は、何も知らない樣子で、

「あの女のひと、私のことを、奥樣でいらつしやいますかつて聞きますのよ。何ですの? 田所さんのところに何か御關係のある方ですか?」と、聞いた。

「いや、田所とは別に何の關係もない。此の頃、やつぱり事業の方で知りあつたホテイ商會の細君ぢやないのかね‥‥」

「さうですか。それにしても、あまり感じのいゝ女の方ぢやございませんのね。終戰以來、色々な人が出來たのですね。何だか、好意の持てない、私の厭な型の女の人でしたわ。――何處へいらしたンだらうとか、何時頃、お歸りでせうとか、無作法な程、とても馴々しいンですのよ。」

 女の直感と云ふものは、すぐ反射しあふものがあるのに違ひないと、富岡は心中ひそかに恐れをなした。

 邦子はゆき子に對して、直感で、一種の膚觸りが感じられたのだらう。富岡は、辛い氣がした。いまのうちに、ゆき子の事を告白してしまつておいた方がいゝのではないかとも考へられたが、モンペの膝に、縫物をひろげて、冬の蒲團の手入れをしてゐる妻に對して、外地での色戀沙汰を報告するには、あまりにも氣の毒な氣がした。罪もない邦子にさうした告白をして、深い傷口をつくる事は、富岡にはたうてい忍びないのである。邦子は、富岡の兩親のもとで、とぼしい生活によく耐へて、良人を待つてゐたのだ。





 翌日、晝過ぎ、富岡は、ホテイ・ホテルに出向いて行つた。ゆき子は待つてゐた。海老茶色の外套を着て、髮を思ひきり額にさげた、見違へるやうに派手なかつかうをして、火鉢に凭れてゐた。

「昨日、うかゞつたのよ‥‥」

「うん‥‥」

「奥さまつて、とても、おとなしさうな方ね」

「君、馬鹿に、お洒落になつたンだね」

「えゝ、此の外套買つたンだけど似合つて?」

「どうしたンだ」

「私、親類のものを默つて賣つちまつて、これ買つたのよ。あまり寒かつたし、淋しくて仕樣がなかつたから‥‥」

「そんな事していゝのかい?」

「よくはないけど、仕方がないわ」

 富岡はまじまじと、派手なゆき子の姿を眺めてゐた。懈いやうな、ものうい姿でゐるゆき子の變化が、そゞろに哀れで、富岡は、昔歌舞伎で觀た、朝顔日記の大井川だつたか、棒杭に抱きついて、嘆いてゐた深雪の狂亂が、瞼に浮んだ。自分が、こゝで此の女を突き放してしまへば、そのまゝ廢頽の淵に落ち込むのが見えてゐるのだ。棄て鉢にさせたら、どんな事になるかと、富岡はさうした不安もあつた。

「何を考へていらつしやるの?」

「別に、考へてもゐないが、これから、二人とも大變だね‥‥」

「さうね、纒りやうがないつて思つてるンでせう? 悉皆、私はあきらめてもゐるのよ。奥さんを見たら、とても悲しくなつて、歩きながら、思ひ詰めちやつたわ。旦那さまに安心してゐる奥さまつて、清潔で綺麗ね。善いひとを不幸にするのは怖いわ‥‥」

 富岡は本氣でそんな事を云つてゐるのかと、じいつとゆき子をみつめた。家の前を彷徨いてゐたのだらうゆき子の姿が眼に浮んで來る。ゆき子はハンカチを外套のポケットから出して眼を拭いた。思ひがけなく、そのハンカチは、富岡がダラットで使つてゐたものであつた。

「貴方は、私なンか捨てゝしまひたいのね? さふだと思ふわ。もう、私の事なンかどうでもよくなつてゐるのよ。私つてものが、貴方には苦痛になつてるのね。私は、貴方に見放されたら地獄へ落ちて行つてしまふのよ。灰になつて吹き飛んでしまふきりなのよ。貴方の影だけを見てゝは生きてはゆけないぢやありませんか。奥さんを愛していらつしやる、そのおあまりを、乞食みたいに貰ふ愛情なンて厭だわ‥‥」

「何云つてるンだ。馬鹿だね。愛情なンか、いまごろ持ち出すなンて變だぜ。それどころぢやなく、俺だつて、色々と考へてゐるンだ。何とか、方法を考へてゆかない事には、君だつて困ると思ふから、かうして、今日も忙しいのにやつて來てゐるンだ」

「厭! そんなに恩を被せないで‥‥。私の云つてる氣持ちが、貴方にはよく判つて貰へないンだわ。私は、どうして、我まゝいつぱいに貴方に甘へてゆけないの? 貴方は、いまでも他の事を考へてゐるンぢやありませんか。――でもね、無理な事は云ひませんから、何とか私の住むところをみつけて、時々逢つて下さい‥‥。私、すぐにでも働きたいのよ。私は、貴方の本當の奥さんにはなれないやうに生れついてゐるンだわね」

 富岡は冷い茶をすゝり乍ら、寒いので、膝を貧乏ゆすりして、ゆき子のヒステリックな口説を聞いてゐた。ゆき子は三日も放つておかれた淋しさで、富岡の顔を見るなり、あれもこれも喋舌りたかつた。

「部屋は探して下すつてるンですの?」

「探してゐるさ。部屋一つ位と思うだらうが、こんなに燒けたンだもの、仲々みつかるもンぢやない。たとへみつかつても、何萬圓と權利金が要るンだ。もう、一寸待つてくれよ‥‥」

「そりやァ、貴方は一軒の家に住んでいらつしやるから、何となく落ちついていらつしやるけど、私は宿無しなのよ。現在泊つてゐる處は、私の住める義理合のない家にゐるンですもの。‥‥早く、私だけの居場所が欲しいのよ。親類が疎開しちやつて、その後を知らない人達が住んでる、その家へ、ほんの數日と云ふ事で借りてるンですもの、辛くて仕方がないわ‥‥」

「いまに、何か見つけてやるよ。俺だつてぐづぐづしてゐるわけぢやないンだ。家と云ふものは、此の時勢ぢやア仲々ないものなンだ。ところで、此の宿ぢや、火はくれないのかね? 馬鹿に寒いな‥‥」

「さうね、また、此の前みたいに、私、宿で壜を借りて、カストリ買つて來ませうか?」

 ゆき子は氣が變つたのか、手提げを引き寄せてもそもそと袋のなかを探し始めた。やつと財布を探し出すと、氣輕るに立ちあがつた。

「おい、少しでいゝよ。澤山は飮みたくないな‥‥」

「今日は早く歸るの?」

「別に早く歸らなくてもいゝ‥‥」

「泊つてかないの? 私、お金あるわよ」

「今日は泊れないね」

「さう、つまらない。どうして? 此の間、叱られたンですか?」

「子供ぢやあるまいし、誰も叱りやアしないよ。今日は駄目だ‥‥」

 ゆき子は無理に強制するでもなく、そのまゝ部屋を出て行つた。此の間の部屋とは違つてゐたが、部屋のなかゞ馬鹿に寒く、目の荒い疊の汚れてゐるのも陰氣だつた。

 富岡は煙草を出して一服つけながら、邦子が、ゆき子の事を、最も厭な女だと云つたのを思ひ出してゐた。

 かうした荒れた旅館の一室で、秘密な女と逢つてゐる事よりも、家の茶の間で、しゆんしゆんと湯のたぎる音をきいて、邦子のそばで新聞に眼をとほしてゐる時の方が愉しいと思へた。何と云ふ事もなく、何故、ゆき子は佛印で死んでくれなかつたのだらうと、怖ろしい事も考へるのだつた。すべて人間の心のなかには、どんな時にも、二つの祈願が同時に存在してゐて、一つはサタンに向ふと云ふ心理があるものだと、富岡は何かで讀んだ記憶があつた。

 富岡は、煙草の煙を眼で追ひながら、ふつと、ゆき子のふくらんだ手提げに眼がとまつた。手をのばしてそれを引きよせてみた。フエルトで出來た汚れた手提げのなかには、紫の風呂敷に包んだ反物のやうな固いものがはいつてゐた。その他には化粧品だとか、富岡がサイゴンで買つた、ブルーダイヤのマークのはいつたパアカーの萬年筆や、ピースの煙草や、手拭や石けんがごたごたとはいつてゐた。靜岡の肉親にあてた手紙も二通ほどあつた。富岡は、軈て、また、もとどほりにその手提げを戻して、煙草を火鉢の固い灰に突き差したが、自分の心のなかゝらはみ出しさうになつてゐるゆき子に對して、何となく濟まない氣がして來た。善き半身である處の邦子のおだやかな容子を考へて、その妻を犠牲にしながら、自分だけはこんなところに彷徨してゆき子に搦まり、現在の生活の淋しさを、ゆき子によつて遁れようと、秘密な誘惑に頼らうとしてゐる自分の身勝手さが、背筋に冷い汗のやうに走つた。

 富岡は人妻だつた邦子をさらつて、自分の妻とした當時の事を思ひ出してゐた。惡い事を重ねては、新しい罪をまた重ねてゆく自分の勝手な心の移りかたが、いまでは宿命のやうにさへ感じられた。ダラットに殘して來た女中のニウは、富岡の子供をみごもつて田舎へ戻つて行つた。まとまつた金を與へたゞけで、一切濟んだ氣でゐた氣持ちが、妙に痛んで、時々、ニウの夢を見る時があつた。もう、ニウはすでに赤ん坊を産んだに違ひないのだ。混血兒を生んで、肩身の狹い思ひをしてゐるだらうと、富岡はなつかしい佛印での生活を思ひ浮べてゐた。

 暫くして、ゆき子が冷い風に吹かれたのか、赧い顔をして戻つて來た。

「ねえ、またお壽司買つて來ちやつた。お酒も、ほら、壜にいつぱい分けて貰つたのよ」

 ゆき子はビール壜を窓に透かすやうにして、富岡へ見せた。ゆき子は、冷い殘りの茶を、亂暴にも、火鉢の隅へあけて、それへ酒をついだ。

「私が、初めに、お毒見よ」と、茶碗に唇をつけて、半分ほどぐつと、飮んだ。

「あゝ、おいしい。胸も、おなかも燒けつくやうだわ」

 富岡は酌をされて、これも息もつかずに、一息に酒を飮んでしまつた。ゆき子はまた茶碗へ酒をついだ。

「ねえ、今夜、泊つて‥‥いけないかしら。もう、今度だけで、無理を云ひませんわ。もし、この家が厭だつたら、何處へでもいゝわ。お金が足りなかつたら、私、いゝものこゝに持つてるから、もつと氣持ちのいゝところに泊つてもいゝわ」

 急に熱いものがこみあげて來て、富岡は、ゆき子の手を握つた。どんな感情も心にしまつてはおけないゆき子の野性的な性格が、愛らしかつた。家庭を背負つた、重い環境に押しひしがれてゐた氣持ちから解放されて、酒の勢ひを借りたせゐか、富岡はゆき子の手の指を唇に噛んだ。

「もつと、ひどく、ひどく噛んでよ」

 富岡は、ゆき子の指を小刻みに噛んだ。ゆき子は耐へられなくなつたのか、富岡のゆすぶつてゐる膝へ顔を伏せて、くつくつと泣いた。

「私は、こんな女になつてしまつて、自分でも、判らなくなつてゐるンです。何うかしてしまつて下さい。どうでもしてしまつて下さい‥‥」

 ゆき子は泣きながら、兩の手で、富岡の膝をさすりながら云つた。部屋の中は暗くなり始めてゐる。賑やかな市場の呼び聲が風の工合か判然りと聞える。富岡はゆき子の頭髮に唇をつけたが、自分の心にはさうした事が、芝居じみてむなしい事をしてゐるやうに思へた。

 妻の邦子にはない、野生な女の感情が、富岡には酒を飮んだ時にだけ、ぱあつと反射燈を顔に當てられたやうに判然りするのだつた。

「私、奥さんを見なければよかつたわ。いゝ人なのね。でも、貴方の奥さんと思ふと、やつぱりあの顔は憎い。私、お宅へうかゞつてから、何時も、あの奥さんの顔がちらちらと胸の中へ刺しに來るの‥‥。奥さんは、きつと、私の事を感じてお出でだわ。ね、おつしやつたでせう?」

「何も云はないよ」

「嘘よ。私、とても、ひどい表情をして、奥さんを睨んでたの。不思議さうに私の顔を見て、奥さんてば、私の足もとから、頭のてつぺんまでじろじろ見てゝ、とても、厭な笑ひ方をしたの。たまらない氣味の惡い、笑ひ方だつたわ。金齒が光つたのよ、その時ね‥‥。どうして、前齒に、金なンかはめてるのかしら‥‥」

 ゆき子は顔をあげて、にやにや笑ひながら云つた。泣いた顔が洗つたやうに化粧がとれて、かへつて生々してみえた。額にさげた前髮が亂れて、初めて見るやうななまめかしさだつた。醉眼で見るせゐか、遠近の調子が、まるで映畫の速度のやうに、眼の前でゆき子の顔がゆれて、濃く淡く見える。

「でも、私より、ずつと年上の方ね‥‥」

「いやに搦むね?」

「さうなのよ。貴方を一人占めしてるのいけないわよ。唇の正面に金齒なンか入れてる奥さんとキッスするひとつて、ぞつとするわ‥‥」

 富岡は邦子の缺點をづけづけと差される事は、あまりいゝ氣持ちではなかつた。部屋の隅に蒲團がつんであるのを富岡は一枚引きずつてきて、膝へかけた。汚れてべとついた冷い蒲團だつた。

「炬燵ね。私も、こつちから足を入れていゝ?」

 ゆき子は醉つてゐた。

「働くつて、何をするつもりだ?」

 もう、三四杯目の酒をひつかけて、富岡が聞いた。ゆき子は一寸眞面目な顔になつて、

「ダンサアになりたいンだけど、いけないかしら‥‥」

 と、眼の底から光るやうななまめかしい表情で云つた。富岡はそれもいゝだらうと思つたが、それに就いてはいゝとも悪いとも云はなかつた。





 軈て、十時近くになり、富岡は、

「さて、歸るかな‥‥」

 と、つぶやくやうに云つて、外套の内ポケットから、まるめたやうな札束を出して、そのまゝゆき子の膝へ置いた。

「千圓ある。これのあるうちに、働く處を何處でもみつけなさい。部屋は、みつけ次第知らせる。明日の晩、一寸、信州へ發つので、十日位は逢へないが、それまで、その家へいくらか金を出して、置いて貰ひなさい‥‥」と、こんな事を云つた。

 ゆき子は、千圓の金を手にして、そのまゝつつ放されたやうな氣がした。

「私、お金いらないわ。それより、泊つて行けない? このまゝ別れるの淋しい。厭だわ。信州へ十日も行くなンて、逃げて行くのよ。さうだわ。きつと、さうだわ。――正直に氣持ちを云つて‥‥」

 殘りの酒をぐつと飮んで、富岡は、また思ひ出したやうに、膝小僧を苛々と貧乏ゆすりしながら、

「いや、さうぢやない。君に申し譯ないンだ。ね、正直に云へば、僕達は、あんな美しい土地に住んでから夢を見てゐたのさ。そんな事を云ふと、君に叱られさうだが、日本へ戻つて來て、まるきり違ふ世界を見ては、家の者達をこれ以上苦しめるのは酷だと思つたンだ。みんなひどい苦しみ方をして來たのに、さうしたなかに、兎に角耐へて來てゐたンだ。僕を待つてゐてくれた人達に、ひどい別れ方は出來なくなつてしまつたンだよ。約束を破つたやうになつたが、君が、倖せになるまで、僕はどうにでもする。眞心こめて考へる‥‥。君は好きなンだよ。それでゐて、どうにも一緒になれないのは、僕の弱いところなンだ。今夜も、泊れない事はないが、もう、君を僞つては惡い氣がして、僕はさつきから早く歸るべきだと、自分に云ひきかしてゐた。信州へ行くのは本當なンだ。旅から戻つて、君にこの氣持ちを話さうと考へてゐたが、急に、いま、ぶちまけたくなつた。本當に別れるとなると、僕は、きつと君が不憫になるにきまつてゐる。そのくせ、現在の家から、自分一人丈拔けて出る事は不可能なンだよ。みんなが、僕一人を頼りにして生きてゐるンだからね‥‥」

 性急に、ゆき子は首を振り、兩の耳を手でおほふた。きらきらと光る眼で、富岡の唇もとを睨みつけながら。――富岡は靜かに蒲團を片寄せて、ゆき子の膝に兩手をかけてうめくやうに、

「別れてしまふより方法はない」と云つた。

「厭! それでは、貴方たちだけが幸福になる爲に私の事はどうでもいゝの? こんなお金なンかいらないッ。私は、お金を貴方から貰つて幸福だとは思はないわ。私は貴方の都合のいゝやうにおとなしくはしてゐられないわ。私にだつて、云ひたい事を云へる權利があるなら、奥さんも私も同じだつて事だわ。奥さんを幸福にする爲に、私なンかどうにでもなると思つてるンでせう‥‥。何故、初めに、私が尋ねて行つた時、玄關で、さう云はなかつたの?」

 ゆき子は一時に醉ひが發して來た。何を云つてゐるのか、自分でもよくは判らなかつたが、富岡の勝手な云ひ分が氣に食はなかつた。

 佛印では、あんなに伸々としてゐた男が、日本へ戻つてから急に萎縮して、家や家族に氣兼ねしてゐる弱さが、ゆき子には氣に入らなかつた。ゆき子は、富岡の兩の手を取つて力いつぱいゆすぶつた。そして、急に左の腕をまくり、太いみゝず腫れの從に長い傷痕をみせて、

「これ、覺えてゐるでせう? みんな、貴方が、加野さんに嘘をついてゐたからだわ。ニウにいたづらしたのも、私、みんな知つてるのよ。貴方は、人間の一生懸命な氣持ちつて、狂人みたいに思つてるンぢやありませんか? 誰でも、すぐ、貴方のやうな人を信用して、加野さんや、私のやうなものは、ノーマルぢやないつて信用されないのよ。――でも、あの時は、貴方は私には贋物には見えなかつた。別れてくれつておつしやれば、仕方がないけれど、それでもいゝものなのかしら‥‥。家を立派にして、家族のひとたちをよろこばせて、自分の胸の中がすつとしたつて、貴方のその幸福をつくる爲には、幾人かを犧牲にしてる事になるわ。それを知らん顔するなンてひどい。そんなに、家や奥さんが大切だつたら、初めつから、石塊になつてればいいのよ。――私、別に、貴方の奥さんを追ひ出したいなンて思はないけど、でも、もう少しいゝ事考へ過ぎてたのね。私は、今夜はこゝへ泊りますから、貴方は自由に歸つて下さいッ‥‥」

 眼が据つてゐた。そして、富岡の手を放すと、ゆき子は、そこにある蒲團を頭から被つてごろごろと疊を轉げまはつた。ゆき子の自暴自棄な姿を眼にして、富岡は森閑とそこに坐つたまゝだつた。




十七

 四日ばかりして、不意に伊庭が上京して來た。

 ゆき子は出掛けようとして、路地の出逢頭に、向うからほつほつやつて來る伊庭に會つた時は、初め、伊庭ではなく、伊庭の兄かと思つた。伊庭も吃驚したやうだつた。

「おう、ゆきちやんぢやないか?」

 ゆき子は突然だつたので顔を赧めた。

「何時、戻つたンだい? 靜岡へ何故、先に戻つて來ないンだ。やつぱりゆきちやんだつたンだね‥‥」

 伊庭は四年も見ないうちに、すつかり老けこんで人相も變つてゐた。

「私がこゝへ來てるの、どうして知つてゝ?」

 伊庭は黒い外套の襟を立てゝくるりと、後がへりの姿で、

「家ぢやこみいつた話も出來ないから、何處かで休みながら茶でも飮むか‥‥」

 さう云つて、ぴゆうぴゆう寒い風の吹く、からからに乾いた廣い道の方へ出て行つた。ゆき子も、伊庭の疲れたやうな後姿を珍しいものでも見るやうに眺めながら、默つてついて行つた。踏切を渡つて、伊庭は驛へは這入らないで、かまはずに道をまつすぐ行つて、丁度驛からは、はすかひに見える蕎麥屋ののれんをくゞつた。薄暗い家のなかには火の氣もなく、たゝきに竝んでゐる卓子の上は白い埃が浮いてゐた。隅の方に二人は腰をかけてむきあつたが、二人ともあまり寒いので、足をたゝきから浮かせるやうにしてゐた。それに硝子戸の外はこまかい格子だつたので、その一隅は特別薄暗く寒かつた。

「こゝは、蕎麥は出來ませんか?」

 伊庭が尋ねた。ガーゼのマスクをした、桃割に結ひたての娘が、蕎麥はまだやかましくて出來ないのだと云つた。こゝで出來るものはと尋ねると、紅茶と、汁粉と、ソーダ水だけだと云つた。この寒いのにソーダ水なンか飮めるものかと、伊庭は、汁粉を二つ、とりあへず注文した。昔ながらの蕎麥屋で、如何にも宿場の食べもの屋の感じである。伊庭はポケットから煙草を出して、一服つけた。一服つけて光の箱をまたポケットへしまひかけると、ゆき子が寒さうに肩をふるはせながら、

「私にも一本吸はせて」と云つた。

「お前、喫むのかい?」

「あんまり寒いから、一寸吸つてみたいのよ。煙を吸ひこんだら、あつたまりさうだから‥‥」

 ゆき子は一本唇に咥へて、伊庭にマッチをつけて貰つた。伊庭はうるさい程、いろいろな事を尋ねた。軈て、ズルチン入りのどろりとした汁粉が運ばれた。椀の蓋を取ると、蓋に汗をかいてはゐるが、汁子の色が飴色をしてゐた。團子の小さい塊りが二つ浮いてゐる。

「お前、勝手にうちの荷をほどいたンだつてね?」

 伊庭が、うつむいて、汁粉の團子を箸でつまみあげながら云つた。ゆき子は默つてゐた。伊庭と同じやうに團子を箸でつまんで口に入れながら、家の者が密告したのに違ひないと思つた。

「家へ行つて、荷物を調べれば判るンだが、どうして、そんな勝手な眞似をするンだね。金がいるのなら、そのやうに云つてくれゝば何とかするンだよ。それよりも、東京へ戻つて、靜岡へ知らさないと云うのはをかしいね‥‥。或る人から手紙で知らせて來たンだが、大分賣り飛ばしてるつて本當かね?」

 伊庭は、消えかけた煙草に火をつけて、すぱすぱと力いつぱい煙草を吸ひながら云つた。ゆき子はいまは、伊庭に對して何の感情もなかつた。

「あんまり、寒かつたンで、お義兄さんとこの荷をほどいて、二三枚拜借したのよ」

「ふうん。賣つたのかい?」

「えゝ、まアね、惡いと思つたけど、燒けた人もあるんだから、その位はいゝと思つて、義兄さん許してくれると思つて、この外套を、そのお金で買つたの」

「どうして、まつさきに靜岡へ戻らないンだ?」

「歸りたくなかつたのよ。それに、一緒に戻つて來た友達もあつたし、これから働く場所も早く探したかつたから、落ちついてから歸るつもりだつたの‥‥」

 さう云つて、ゆき子は、手提げから、故郷へ書いた手紙を二通出してみせた。もう、四五日前に書いたまゝ、出し忘れてゐた手紙だつた。

「何と何を賣つたンだ?」

「絽縮緬二枚と、反物が少しあつたから賣つちやつた」

「お前、そんな亂暴な事をしていゝのかね? あつちへ行つて、人柄が變つたね」

 ゆき子は默つてゐた。

「銀行をやめて、ずつと田舍で百姓をしてゐたンだが、やつぱり都會で暮したものは、田舍には住みつけない。それで、此の暮にはみんなで出て來るつもりで、荷物を送つておいたンだ。めぼしいものは今いゝ價になるから、そいつを賣つて、商賣のたしにでもするつもりでゐたンだよ。お前、外套は田舍にあづけてある筈ぢやないか?」

「えゝ、だから、あつちの方を賣つて下すつてもいゝわ。私のもの、みんな賣つて貰つてもかまはないわ。私ね。結婚するつもりで、今度、それで先へ東京へ來たンです」

「ほう、何時結婚するンだ?」

「うゝん、それがうまくゆかなかつたの。そつちには奥さんも親もあるンで、日本へ歸つたら、みんな駄目になつちやつたのよ」

「何をする男だ?」

「やつぱり農林省の人で、あつちでは一緒に働いていた人なの。こつちへ戻つて、いまは、材木の方をやつてるつて云つたわ」

「いくつだい?」

「義兄さんよりはずつと若いわ」

「欺されたンだな‥‥」

「いゝえ、欺されたわけぢやないけれど、別れるやうになつちやつたのよ‥‥」

 伊庭は、無口でおとなしい娘だつたゆき子が、すつかり人柄が變つてしまつてゐる事が珍しかつた。すつかり大人らしくなつて、云ふ事もはきはきしてゐた。寒いので、ゆき子は紫の風呂敷で頬かぶりしてゐたが、地肌が白いので、その紫が顔に影をつくつてよく似合つてゐた。

「義兄さん、ずつとこれからゐるの?」

「うん、三四日泊つて、一寸、あつちこつち東京の友人も尋ねたり視察したりして、歸るつもりだ。一緒に戻つてもいゝよ」

「荷物はないの?」

「いや、角の産婆さんに預けてあるンだ。産婆さんがお前の事を知らせてくれたンだよ」

「さう‥‥」

 二人は蕎麥屋を出たが、別に行くところもないので、伊庭もゆき子も驛の前のこはれた自動電話の箱の前で立ち話をした。

「私はこれから、新宿まで出るから、どうぞ、勝手に調べてみてよ」

 ゆき子は惡びれた容子もなく云つた。

 伊庭は、寒さうに風のあたらない方へ、背を向けて立つてゐたが、「一緒に行つてみよう」と、ゆき子と竝んで驛へはいつて行き、二枚の切符を買つた。

 二人は新宿へ出て行つた。伊庭はゆき子が妙にはきはきしてゐるのが不安だつた。何を考へてゐるのかさつぱり見當がつかない。薄陽の射した天氣だつたが、馬鹿に風の強い日だつた。電車の中も、硝子はあらかたこはれてゐたので、氷の室が走つてゐるやうに寒かつた。

「隨分、やられたものだなァ」

 驛々の間の、荒凉とした燒跡に眼をとめて、伊庭はそれでも珍しさうに窓外を見てゐる。

「ね、義兄さん、私、ダンサアになりたいンだけど、私にやれるかしら?」

 ふつと、何氣なくゆき子が云つた。伊庭はゆき子の突拍子もない話に驚いたらしく、すぐには返事もしなかつたが、

「タイプの仕事をするのは厭なのかい?」

 と聞いた。

「もう、あんな仕事は飽きちやつたわ。サラリーも少ないつて云ふンだし、進駐軍專用のホールだと、とてもいろんな面で收入がいゝつて云ふわね」

「うん、それもさうだらうが、長續きするか、どうかね‥‥」

 二人は新宿へ出て、何の目的もないので、暫く歩いて、武藏野館でキュウリイ夫人と云ふ映畫を觀にはいつた。何年ぶりかで、西洋映畫を見る氣がした。ぼろぼろになつた椅子に、二人は竝んで腰をかけたが、映畫館の中もとても寒かつた。荒れ果てゝ昔のおもかげもない、むさくるしい小舍の中で、初めて觀る西洋映畫は、現實からはづれたやうな奇妙な感じだつた。

 伊庭は何を考へてか、ゆき子の手を暗がりのなかで握つた。熱い手だつた。ゆき子は厭な氣持ちだつたが我まんして、伊庭に手を握られたまゝにしてゐた。銀色に光るスクリーンの反射で、伊庭の横顔が死人のやうに見えた。ゆき子は、富岡とのこの間の別れが胸に來て、こんな淋しい思ひをするのも、みんな富岡の爲なのだと、いまごろになつて涙が溢れて來る。

 映畫館を出た時は薄暗くなつてゐた。

 すつかり、露店もなくなり、四圍はいやに淋しくなつてゐた。廢墟の角々に外燈がついてゐるのが、いつそう敗戰のみじめさを思はせた。凍つたやうな冷たい風が吹いた。二人は電車通りへ出た。まるで小舍のやうなバラックの商店が竝んでゐたが、それも早々に店を閉してゐた。このごろは強盜おひはぎのたぐひが街に横行してゐたので、日の暮れには、どの商店も早い店じまひをしてゐる。

 ゆき子は二度ばかり來た事のある、角筈の電車通りに出來た、中華蕎麥の小さいバラックの店へ、伊庭を連れて行つた。夜になると、ゆき子は強い酒が飮みたかつた。荒れ果てた心のなかに、強い酒でもそそぎこまなければやりきれない氣持ちだつた。竹の子蕎麥を注文して、二人は珍しく小さいストーヴの燃えるそばへ腰を降した。ストーヴが勢よく燃えてゐるのを見るのは、何年ぶりだらうと、ゆき子は青く光つた錻力の煙突に、ちよいちよいと指先で觸れてみた。

「ダンサアなンてのは賛成しないね」

 伊庭が煙草を吸ひながら云つた。ゆき子は、さつき手を握つてゐた伊庭の厚かましさがいやらしくて返事もしなかつた。伊庭はゆき子の派手な化粧をしてゐる顔を珍しさうに眺めながら、

「ずつと、お前の事は心配しづめだつた。うまく歸れるものなのかどうかも心配だつた。日本もいまは大變だ。みんな偉い人達はつかまつたし、世の中がひつくり返つたやうなものだ。昔、偉くかまへてゐた人間が、いまはみんな落ちぶれてね、小氣味がいゝ位に世の中が變つた」

 しんみりと、伊庭はそんな事を云つた。

「あんまりのぼせかへつたのよ。もう、これから戰爭がないだけでも清々していゝわ。でも、よく義兄さんは兵隊にとられなかつたわね?」

「うん、そればかり心配してゐたンだ。濱松の軍の工場に勤めたのも兵隊のがれだつたが、いまから思へば、夢のやうなものさ‥‥。濱松もやられて、それからずつと百姓をしてゐたが、よく兵隊にとられなかつたと、不思議な位だ。終戰になつて、一番、心配したのは、お前の事だつたが、かうして樂々と戻つて來ようなぞとは思はなかつたな‥‥」

 熱い蕎麥が來たので、二人は丼を抱へこんで食べた。珍しく赤く染めた竹の子がはいつてゐた。

「美味い‥‥」

「こゝ、とても美味いのよ。第三國人がやつてるのね。とても量が澤山あつて安いのよ」

 ゆき子は、ふ